第36話 夜会
今宵の夜会はマダムの屋敷で催されるものではなく、招待されたものだった。
馬車に乗り込み、目的地に向かう。日はとっくに暮れ、空は墨を溶かしたように真っ黒だった。だが、均等に並ぶ街灯が宵闇を照らす為、周りは明るかった。夜なのに建物や人の顔がハッキリ見えるなんて不思議だわ、とレティリエはぼんやりと外の景色を眺めながら思った。
連れていかれた先は、マダムの屋敷に負けない程の立派な建物だった。
マダムについて広間に行くと、昼間のパーティーとは違った、妖艶な空気がそこにあった。
肌を存分に露出させ、艶かしいドレスを着た女性がそこかしこにおり、お酒がだいぶ回っている人もいる。いつものパーティーに来る客層に比べると……なんというか、少し俗っぽい雰囲気だった。
馬車の中で聞いたマダムと側近のギャスパーの会話を思い出す。そういえば、今日の夜会は商談が目的だと言っていた。と言うことは、ここに来ている客層は、マダムと同じ商売人なのだ。
「マリー! よく来てくれたね。そっちの子は例の狼ちゃんかい?」
ハスキーな声がして振り替えると、身なりの良い男性が大股でこちらに近づいてきているのが見えた。
「お招きありがとう、ジャック。ええ、お言葉に甘えて連れてきたわ」
マダムが微笑み、レティリエの背中を押す。今日はいつもと違って髪も全部結い上げられてしまったので、背中も丸見えだった。
「はじめまして旦那様。レティリエと申します」
マダムに教えてもらったように、スカートを少し持ち上げて優雅にお辞儀をする。自分はあくまでマダムのペットという立場なので、対等に話すことは許されない。従順にしつけられたペットを見て、ジャックは微笑んだ。
「こんばんは、レティリエちゃん。僕はマダムの商売の支援をさせてもらっているジャック・ハーバーだ。君みたいな可愛い子が来てくれて嬉しいよ」
ジャックは白い歯を見せながら爽やかな笑顔で挨拶する。レティリエよりは大分年上のようだが、まだ若い男性だ。優しそうな笑顔に内心でホッと安堵のため息をつきながら、レティリエは微笑むことでそれに答えた。
「へぇ……笑うとなかなかにエレガントだ。ところでマダム、この子は一晩いくらで買えるんだい?」
ジャックの突然の発言にギョッとして慌ててマダムを見る。だが、マダムは想定内とでも言うように余裕の笑みで返した。
「あら嫌だわジャック、この子は娼婦じゃないのよ。お願いだから気安く触らないでちょうだいね」
「おや、そういう切り札で連れてきたのかと思ったよ。貴女はかなりやり手だから」
「彼女は私の可愛い狼よ。そんなことには使わないわ。でも、切るカードがあると思わせておくのは悪いことではないわね」
「なるほど、今日は哀れな同業者を煽る為に連れてきたわけか。良いだろう。ちょうど貴女に紹介したい人がいるんだ」
ジャックの言葉に、マダムはパッと破顔した。
「まぁ! それは嬉しい申し出だわ。今日はここに?」
「いや、こんな商売人達の集まりには来ないさ。だけど、攻落する相手のことは知っておいた方が良いだろう? あっちで詳しく話すよ」
ジャックとマダムは話ながら向こうへ行ってしまった。レティリエはついていくべきなのか迷ったが、商談に自分は不要だと思い、その場に留まった。
自分の存在が必要になれば、マダムから声がかかるはずだ。このままマダムについていくことで悪目立ちしなくて良かったとレティリエは安堵のため息をついた。
目立たない様にソッとその場を離れ、部屋の隅に置いてあるソファに腰をおろす。だが、レティリエの存在は、マダムがここに来た時から既に認識されていた。
レティリエがソファに座った瞬間、どこから沸いて出たのか若い男性がどかっと隣に腰をおろした。
「やあ。君が噂の狼ちゃんだね。そこらへんの商売女より美人じゃないか」
酒臭い息を吐きながら、男がレティリエの腰に手をまわす。かなり若い青年だ。少し前まで少年だったと言わんばかりに、行動が子供じみている。
「ねぇ、耳、本物? ああ尻尾もあるんだね。へえ、本当に狼なんだ。でも人狼って体の造りはほとんど人間と一緒なんだろ? 確かめさせてよ」
嫌だと抵抗する間もなく、あっという間にソファの上に横倒しにされる。レティリエの脳裏に一瞬黒い狼の姿が浮かんで消えた。
酒臭い息と共に青年の顔が近付き、あわや唇が触れあう寸前で、突如青年の顔がグイと後ろへ遠退いた。
「なっなんだよ!!」
青年の怒った声が響く。慌てて身を起こすと、ギャスパーが青年の首もとを掴んで引き戻しているのが見えた。
「失礼いたしました。ですが、このような場所での狼藉はお控え頂きたく」
「はぁ? こいつはただの犬じゃないか! 人間が家畜をどうしようと勝手だろ!」
「犬であることに間違いはございませんが、彼女はおそれ多くもマダム・ドミエールの愛狼です。失礼ですが、貴方はトンプソン様のご子息ですね?」
「ああ! それがなんだって言うんだよ!」
怒り狂う青年の前でも顔色ひとつ変えず、ギャスパーは薄く笑った。
「おや? ご存知ありませんか。トンプソン商工の親元であるイーゼラ商会は、わが主人、マダム・ドミエールの取引相手です。今の一件がマダムの耳に入れば、貴方のお父上はさぞお嘆きになるでしょう」
ギャスパーの言葉を聞き、途端に青年の顔が青ざめる。青年は飛び上がるようにしてソファから立ち上がり、そのまま消えて行った。
バクバクと早鐘のように鳴る心臓を押さえながらギャスパーに会釈をすると、彼はギロリと睨み返してきた。余計な手間をかけさせるな、そう言われた気がして、レティリエは萎縮する。
夜会が終わるまで、ギャスパーは無言のままレティリエの側にずっと立っていた。
マダムの屋敷に戻り、自分の部屋に入った途端、レティリエは床に崩れ落ちた。足が震えてうまく立てない。レティリエは床にペタンと座りながら、そっと自分の唇に手をあてた。
キスの感触を上書きされなくて良かったと心から思う。と同時に、今まで感じたことのない恐怖が体を支配していることを自覚する。
狼はルールや秩序を大事にする生き物だから、意図的に他人に危害を加えることはない。このような身の危険を感じたのは生まれて初めてだった。
レティリエは自分の体に視線を落とし、不自然に盛り上がった自分の胸元を見た。わざときつめに絞めて、必要以上に胸が豊かに見えるように着付けられている。こんな扇情的な格好をさせられて、今日みたいなことにならないはずがない。マダムはわざとやっているのだ。男の目を悦ばせて、レティリエが受ける賞賛や憧れの感情を、自分のものとして見ている。
そこにレティリエの意思や感情は一切反映されない。
レティリエはヨロヨロと立ち上がり、姿見の前に立った。
目の前には胸も足も露出させ、あられもない格好をした自分がいた。顔には化粧を施され、唇にはドレスと同じ真っ赤な紅が引いてある。
(これは誰……? 私なの……? 知らない……こんな人、私は知らない……)
鏡に映った姿が、赤の他人のように見えた。自分はもう、自然と共に生きる狼ではなかった。マダムの人形として買われているただの犬だった。
レティリエは突然郷愁の念に駆られた。窓を開け、顔を外に出す。冬の始まりを告げる冷たい空気が髪を撫でた。この視線の遥か先に故郷があるのだ。皆今頃何をしているのだろうか……思った瞬間に、レティリエは窓枠に足をかけ、外に向かって飛び出していた。
そのまま門まで一直線に暗い庭を駆け抜ける。本気で外に出られるとは思っていない。ただ、今は少しだけ悪いことをしたい気持ちだった。
門の側まで来ると、レティリエは足を止めた。大きな黒い門が目の前にそびえ立っており、敷地を囲むように取り巻く柵が行く手を阻む。柵はレティリエより遥かに高く、いかなるものも寄せ付けないという強固な意思を感じる。全ての侵入者を阻む鉄壁の柵は、レティリエにとっては堅牢な檻だった。
柵に手をかけ軽く揺すってみる。当たり前だが、柵はびくともしなかった。自分はこのまま一生マダムの傀儡として生きていかなければいけないのだ。
狼の村にいた時も、それなりに辛い思いをしていたのは事実だ。それでも、そのままレティリエを好きだと言ってくれる人もいた。
だが、ここには素の自分を愛してくれる人は一人もいない。自分が自分でいられなくなるということは、なんと辛く、苦しいことだろうか。
(マザー、グレイル、ナタリア……皆に会いたい)
レティリエは柵を両手で掴んだまま項垂れる。
望郷の念で胸が張り裂けそうになった時、懐かしい香りがした。グレイルの為に毎日の様にとっていたヤマモモの香りだ。今は時期ではないはずなのに……いぶかしみながらも振り向くと、柵の近くにヤマモモの木が立っていた。
庭木用に剪定されたその木は、野生の物と比べると大分小振りだが、それでも懐かしいものであることに変わりはない。実はついていなかったが、まるでここにいるよとそっと教えてもらった気がした。
レティリエはヤマモモの木に近づくと、幹に手をまわして抱き締めた。温かい木の温もりが全身を満たす。
レティリエはヤマモモの木を抱き締めながらさめざめと泣いた。
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