第31話 人間の世界へ

 夢を見ていた。

 夢の中の自分は少女の姿をしていた。


 幼い頃のレティリエは川べりで泣いている。狩りができないお前は、村の皆が捕ってくる獲物を食べる資格なんか無いと言われ、村人全員が自分を責めている気がして、怖くて怖くて逃げ出してきたのだ。

 大粒の涙をポロポロと流しながら泣いていると、隣に誰かが座る気配がした。そっと顔をあげると、そこには在りしの日のグレイルがいた。


「そんなに泣くなよ、レティは何も悪くないだろ」


 ぶっきらぼうに、それでも言外に優しさをにじませながらグレイルが言う。レティリエはうつむきながらふるふると頭を振った。


「ううん、皆に迷惑をかけてるのは本当だもの……私、どうしたらいいのかわからない……」

「別に、狼になれないのはお前のせいじゃないだろ」

「でも、狩りができないし皆に守られてばかりだわ。それなのに、私何もできない、皆に何も返せない……」


 レティリエがしゃくりあげ、大きな目から涙がこぼれ落ちる。グレイルはしばらくの間川のせせらぎを無言で見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「じゃあさ……俺がお前の分まで獲物を捕ってくればいいだろ」

「え?」

「お前が狩りができないっていうなら、俺が二人分捕ってくる。それなら同じだろ? 狩りだけじゃない。もっと強くなって、敵が来たらお前の分まで戦ってやる。レティがいなくても、その分の穴は開けさせない。だから……」


 グレイルがレティリエの方を向いた。彼の金色の瞳は強い意志の光を灯している。


「だから、もう泣くな」


 レティリエの瞳が揺れた。

 驚いた顔でグレイルを見つめると、彼はプイと横を向いてしまった。乾いた砂に水が注がれた様に、温かい気持ちがじんわりとレティリエの胸を包み込む。


「うん……ありがとう……」

「ん。じゃあ帰ろう、マザーが待ってる」


 グレイルが右手を差し出す。そこに自分の手を重ねると、彼はその手をギュッと力強く握ってくれた。

 ああ、思い出した。自分はこの手を取った瞬間に、


 ――恋に落ちたのだ。





 馬車の中でそっと目を開ける。まぶたの裏に溜まっていた涙が、まばたきと共に頬に流れ落ちた。

 どうやら泣きながら眠りについてしまったらしい。馬車はまだ規則正しい音を立てて揺れていた。窓の外を見ると、美しい星が天上に瞬いているのが見えた。

 彼のことを考えていたからだろうか。随分と懐かしい夢を見てしまった。

 あの日から、自分はずっとグレイルの後ろ姿を見つめ続けてきた。背丈や体格の成長と共にどんどん力をつけ、彼の存在が自分から遠くなっていくことに寂しさを覚えつつも、それは他ならぬ自分の為と言ってくれたことを思うとたまらなく愛しかった。

 立場の違いから一緒になること自体は諦めていたものの、それでも言葉を交わせる距離にいてくれるだけで十分に幸せだったのだ。

 幼い時分に目覚めた恋の芽が長年かけてゆっくりと成長し、大輪の花となって自分の胸の内を満たしていることに気付いてしまったあの夜からは、マルタの後押しもあって、少しずつ自分の恋心を認めて素直に出せるようになったのに。

 やっと少しだけ彼に近づけたと思ったのも束の間、残酷な運命は手の届かぬ距離へ二人を引き裂いてしまった。


 レティリエは自身の唇にそっと手を当てた。あの時のキスの感触がまだ残っている気がする。

 鋼の様な肉体とは裏腹に、彼の唇は驚く程柔らかかった。ひとつになった瞬間の甘美な胸の震えを、自分は生涯忘れることはないだろう。

 レティリエはそのまま自身の唇をゆっくりと押した。柔らかな弾力が指に伝わり、思わず身震いする。きっとこれから自分はことあるごとにこの瞬間を思いだし、これをよすがに生きていくのだろう。

 レティリエはもう一度煌めく夜空を見上げた。彼も今、この星空を眺めているのだろうか。夜風が髪を撫でると同時に、また涙が一雫頬を伝った。





 馬車は夜通し走り続け、朝陽が顔を覗かせると共に歩みを停めた。眩しい日差しに目を細めながら外を覗くと、まだ森の中だった。前の座席に座っていた人間が馬車から降りる気配がする。

 成り行きに身を任せるしかないと、体を固くして待っていると、馬車の扉が開いた。


「もうすぐ人間が住む都市に入る。狼の耳は目立つからこれをかぶっていろ」


 男がつばの広い帽子を手渡してきた。言われた通り、狼の耳を畳むようにして帽子を被り、首元でリボンを結ぶと、男が満足そうに頷いた。


「こうやって耳が隠れると本当に貴婦人の様だな。よしよし、これは良い取引ができた。その帽子は、目的地につくまで外すなよ」


 レティリエが無言で頷くと、男は元の席に座り、馬車は再度動き始めた。

 馬車の歩みと共に、木々が少なくなっていき、やがて石造りの建物が視界に入るようになった。レティリエは窓からそっと顔を覗かせ、その景色に目を奪われた。

 

 まず始めに驚いたのは、石造りの道に行儀よく並ぶ色とりどりの建物だ。 黄色や緑の壁に、赤い屋根。窓枠やドアは季節の花々で飾られており、その色彩の多さに目がチカチカする。広けた場所には大きな噴水が置いてあり、水飛沫が日の光に照らされてキラキラと光っていた。

 朝の仕度で忙しい人間達が忙しく動き回る光景は狼の村と同じだが、商売人達が大声で物を売る声が飛び交い、活気があった。

 華やかで美しい光景に見とれると同時に、均整の取れた町並みに一種の冷たさを感じる。木や土の温もりと共に育ったレティリエに取って、人工的で自然の温かさが感じられないこの町は肌に合わない。

 それでも、自分はこれからここで生きていかなければならないのだ。

 馬車が進む方向に目を向けると、数人の若者がこちらを指差しているのが見えた。


「おい、あの馬車を見ろよ。すごい美人が乗ってるぞ」

「本当だ。どこの家の子だろう。ここいらじゃ見かけない顔だな」


 若者特有の不躾さでワイワイと盛り上がる声が聞こえ、レティリエは慌てて馬車の中へ引っ込んだ。馬車の外側は、自分が知っている世界とは何もかも違っており、怖くてたまらなかった。

 レティリエは目的地に着くまでの間、馬車の中でじっと身を強張らせていた。



 人間達の住む都市に入ってからも数時間揺られていたが、馬車はある地点で今度こそ歩みを止めた。窓から顔を覗かせ、レティリエはその光景に仰天した。

 今までに見たことが無い程の巨大な建物が目の前にそびえ立っている。石造りの円柱が規則正しく並ぶ正面玄関は全て半円型のアーチで繋がっており、壁には美しく凝った意匠がいくつも彫られていた。建物が高すぎててっぺんが見えない。


(扉がいくつもあるわ……大家族が住んでいるのかしら……?)


 初めての光景に目を見張りながら驚いていると、上等な黒い衣服を着た人間が馬車に近づいてくるのが見えた。


「当劇場へようこそ。お客様、ご案内いたします」

 

 黒服の男は馬車の前で恭しく頭を下げると、正面玄関を手のひらで指した。前方の席に座っていた人間が窓から顔を出し、男に小声で耳打ちした。


「いや、俺達は客じゃない。例の件で来た。通せ」

「これは失礼致しました。それではこちらへどうぞ」


 男は一礼すると、建物の裏側に案内する。建物の裏手は薄暗く、正面の華やかさとはうってかわって、薄気味悪い空間だった。

 黒服の男は簡素な一枚扉がある場所まで馬車を案内すると、扉を開く。ギギィ……と重い音がして馬車が中に入った。

 

 建物の中に入ったと同時にまず気づいたのは、微かなすすり泣きの声だ。暗闇の中で誰かが泣いている。部屋の中は真っ暗で、夜目が効くレティリエでさえもぼんやりとしか見えなかった。何か四角い箱のような物がいくつも置いてある。目を凝らしてよく見ようとした瞬間、部屋に明かりが灯された。

 揺れ動くろうそくの光と共に映し出されたのは恐ろしい光景だった。


「いやっ……何……これ……!」


 暗闇の中には、人間以外の異種族の者達がいた。エルフにドワーフ、大鍋に入れられているのはおそらく人魚だろう。皆首に鎖をつけられ、壁に備え付けられた檻の中に捕らわれていた。

 この恐ろしい光景を見た瞬間、レティリエの背筋が凍りついた。馬車に乗っていた二人の人間の手によって馬車から下ろされるが、震えのせいで思うように立てず、その場に崩れ落ちてしまった。


「立て。こっちに来るんだ」

「いやぁっ! 誰か! 誰か助けて!!」


 声を限りに叫んでも、闇で封じられたこの空間に助けが来るはずが無かった。

 男の一人がレティリエを易々と担ぎ上げると、空いている檻の中にいれ、首に鎖を繋いだ。その後、二人の男は先程案内をしてくれた黒服の男と一言二言会話をすると、部屋を出ていった。

 ギギィと鈍い音と共に扉が閉まり、部屋はまた静寂に包まれた。


 否、微かにすすり泣く声が聞こえる。声がする方を見ると、大鍋の中に入れられた美しい人魚が顔を覆いながら泣いていた。


「へぇ人狼か。珍しいな、初めて見たよ」


 すぐ隣から声がして振り向くと、隣の檻に繋がれている青年がレティリエに向かって話しかけていた。

 彫刻の様に整った端正な顔立ちと、長い髪から覗く尖った長い耳。レティリエもその存在と容姿の特徴は噂に聞いていた。


「エルフ……?」


 ポツリと呟くと、青年は頷いた。


「人狼は懐かない上に気性が激しいから、あまりこういうところには出回らないと聞いていたけどな。君は大人しそうだし、大分毛色が違うようだ」

「あの……ここはどこなんでしょう……?」


 恐る恐る尋ねると、彼はその美しい顔を憎悪に歪ませた。


「ここは劇場さ。人間達が観劇を楽しみにやって来る場所だ。だが、それは表向きの話で、夜は欲望渦巻く闇の娯楽場となる」


 エルフの特徴なのか、青年はどこか歌うような響きで話す。


「闇の娯楽場……ここで一体何が……?」

「異種族の人身売買さ。ここにいる者達は、皆今夜のオークションで競りに賭けられる」

「競売ってこと? まさか、そんな恐ろしいことが……」


 グレイルと一緒に逃げる時に、彼からその言葉を聞いたことを思い出す。身震いしながら呟くと、エルフの青年は物珍しそうにレティリエを見つめた。


「君は何も知らないんだね。人狼は異種族と交流が無いと言うのは本当なんだな。エルフは皆容姿が美しいからよく連れていかれる。男も、女も。運良く逃げ帰ってきた仲間からおぞましい話を山ほど聞いたよ」


 レティリエはエルフの話を震えながら聞いていた。誰に買われるかによって自分の運命は大きく左右されるのだ。山小屋で捕らえられた時と状況は似ているが、あの時はグレイルがいてくれた。頼もしい彼がいてくれたお陰で、自分も冷静でいられたのだ。

 だが、今は違う。怖くて怖くて、それ以外のことが何も考えられなかった。


 思わず胸元で手を握りしめると、その弾みに首飾りが手に触れた。レティリエは桃色に煌めく石をじっと眺め、ぎゅっと手の中で握りしめた。


(お願い……私のことを守って……)


 風も無いのに蝋燭の明かりが揺れ、ふっと消えると共に、部屋はまた静寂の闇に呑まれた。

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