第30話 別れ
レティリエの心は渇いていた。胸のうちは完全な虚無だった。湯浴みの為に浴室に通され、家人が自分の体を洗ってくれるのを黙って享受する。その後は新しい衣服を着せられ、なすがままに外に出された。
村長の家の前には、人間達が乗ってきたであろう馬車が停まっていた。拐われた時に乗った幌馬車とは違う、上等なものだ。あちこちに意匠が施され漆で塗られたであろう外観はピカピカに光っていた。この村には不釣り合いなこの乗り物に今から乗るのかと、レティリエはどこか他人事の様にぼんやりと思った。
「レティリエ!!」
馬車に乗り込もうと段差に足をかけた瞬間、マザーが飛び込んできた。子供達も後を追ってわらわらと馬車に群がる。
皆泣いていた。先程の嬉し涙とは違い、悲しみに心を痛ませながら目を真っ赤にして泣き腫らしている。
「レティリエ……なんでこんなことになっちまったんだい。やっと帰ってきたと思ったら……こんな……」
マザーの目から涙が流れ落ちる。いつでも優しく、大きく自分を包み込んでくれていたマザーが、今はとても小さく見えた。肩を震わせて涙を溢すマザーに手をまわし、レティリエは優しく抱き締めた。
「マザー、今まで育ててくれてありがとう……元気でね」
レティリエの目頭が熱くなる。視界が涙でぼやけ、まばたきひとつで今にも溢れそうだった。でも、自分が泣きじゃくる姿を見せたら、きっとマザーはもっと悲しむだろう。
レティリエは涙が滑り落ちるのをぐっと堪えた。マザーを抱き締める腕に力がこもる。このぬくもりを二度と忘れないように、しかと記憶に刻み込んだ。このままずっとこうしていたかった。
レティリエは一人一人にきちんと別れの挨拶を済ませると、静かに馬車に乗り込んだ。
ビロード貼りの椅子に座り、窓から外を眺める。馬車の背が高い為に、マザーと子供達が遥か下にいるのが見えた。
「レティ! こんなのに乗る必要ないわ! 私と一緒に逃げましょう!」
ナタリアも駆けつけて、馬車の扉を叩く。レティリエは微笑むと力無く首を振った。
「ダメよナタリア。クルスが待ってるわ。どうかお幸せにね」
「何よ意地はっちゃって! レティの馬鹿!! あんただって……あんただって一緒にいたい人がいるんじゃないの?!」
ナタリアの言葉に、レティリエの耳がピクっと微かに反応した。虚空だった胸中に熱が戻る。
胸に手をあててそっと目を瞑ると、愛しい彼の姿が浮かび上がった。
(グレイル……あなたともお別れね)
幼い頃からずっと好きだった幼馴染み。あんなに恋慕っていたのに、結局は自分の想いを伝えることなく終わってしまうのだ。
叶うなら一度だけでもいい。力一杯抱き締めてもらって、彼の体温を感じてみたかった。
「レティリエ」
微かに砂を踏む音がし、窓から外を覗くと、そこには今しがた思いを馳せていた彼が立っていた。
「グレイル……」
そっと名前を呼ぶと、グレイルは悲痛な面持ちでレティリエを見上げた。なんと声をかけたら良いかわからない様子で、拳を固く握りしめている。
「ありがとう、見送りに来てくれて」
「レティリエすまない……俺にもっと力があったら……俺が村長と同じくらいの力を持っていたら、こんなことにはさせなかった」
グレイルが歯噛みする。レティリエはふるふると首を振った。
彼は最後までずっと自分の味方でいてくれた。目上の者には絶対に礼儀を忘れず、上下関係を大切にするグレイルが、村長に逆らってまで反対をしてくれたのだ。
それだけで、自分は十分救われた。
窓枠に手をかけて少し顔を出すと、グレイルの金色の瞳と目があう。馬車に乗っていても、背が高い彼の目線は自分より少し下にあるだけだ。
レティリエはグレイルの端正な顔立ちをじっと見つめた。おそらく、彼を見るのはこれが最後になるだろう。男らしい体つきや、雄々しく戦う彼の姿を見て何度も胸をときめかせてきたが、自分が好きになったのはその胸のうちにある優しい心だ。グレイルはいつだって自分の気持ちを思いやってくれて、味方になってくれた。
役立たずの雌狼は、彼の前では一人の女の子でいられた。
レティリエの心に切ない恋しさが沸き上がり、あふれでた。
好き。好き。大好き。
あなたのことが好きなの。
思った瞬間には体が動いていた。窓から身を乗りだし、両手でグレイルの顔をそっと包み込むと、そのまま唇を重ねた。涙が一筋溢れ落ち、初めて交わす口付けを哀情の味に変える。ゆっくりと唇を離して身を起こすと、銀色の髪が名残惜しそうにグレイルの頬を撫でた。
「ずっとずっと大好きよ、グレイル。今までありがとう……さようなら」
驚きに目を見張るグレイルを最後に視界にいれると、レティリエは馬車の中に入る。レティリエが中に入ったことを確認すると、御者が馬に鞭をふるい、馬車が動き出した。
だが、馬車の姿が消えるまで、レティリエが顔を出すことは二度と無かった。
グレイルは呆然と立ち尽くしていた。
レティリエに口付けをされたことに驚いたのではない。自分もずっと彼女と同じ気持ちだったことに気づいてしまったのだ。
彼女の唇が触れた瞬間、彼女の小さな体をかき抱いて、柔らかい唇に深い口付けを落としたい衝動に駆られた。彼女が傷つけられる度に怒りを覚えるのも、彼女の側にいてやりたいと思うのも、全て幼馴染みや友としての感情ではなく、一人の女性として慕う気持ちから来ていたのだ。
群れでの役割を意識するあまり、個の感情に気付きにくくなっていた自分に憤りを覚える。
だが、今となってはもう遅い。
グレイルはカタカタと音を立てて去っていく馬車をいつまでも眺めていた。
彼女は今馬車の中で何を思っているのだろうか。
側にいてやりたかった。
側にいて、抱き締めてやりたいと思った。
だが無情にも馬車はどんどん小さくなっていき、やがて地平線の彼方へ消え失せた。
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