第20話 マルタの激励

 胸の中で暴れまわる痛みに押し潰されそうになった時、温かい手がレティリエの肩に触れた。驚いて振り向くと、そこには優しい顔をしたマルタが立っていた。


「……マルタさん……」

「大丈夫かい? あんたがさっき思い詰めた顔で出ていくのが見えたから来てみたけど……何か辛いことがあったんだね」


 レティリエは涙を拭いてマルタに向き合おうとしたが、涙は止めどなく溢れて止まらない。マルタはレティリエの隣に座ると、優しく背中を撫でてくれた。


「いいよいいよ。悲しい時は全部出しちまう方がいいのさ。落ち着くまでいてあげるよ」

「ありがとう……ございます……」


 レティリエはしゃくりあげると、声を押し殺して泣いた。声をあげる度に胸がきゅうと締め付けられるように苦しくなるが、マルタの優しく背中を撫でる手がそれを打ち消してくれるようだった。

 一泣きして落ち着いた頃には、先程の胸の痛みは少し緩和されていた。


「落ち着いたかい? 何があったか知らないけど、こういうのは誰かに吐き出した方がスッキリするよ。あんたが良ければ話してみなさい」

「はい……ありがとうございます」


 その優しい声音に甘えて、レティリエはポツポツと話し始めた。グレイルのこと、狼の村のこと、そして自分は彼とは添い遂げられないこと……。


 マルタは黙って聞いていたが、話を聞き終えるとレティリエの頭を優しく撫でてくれた。


「多分……あんたが辛いのは、自分の気持ちを彼に伝えられないことなんじゃないのかい?」


 マルタの言葉に、レティリエは驚いて瞬きした。


「そんな、私、告白なんて……」

「いんや、あんたはね、彼に自分の気持ちを知ってもらいたいって思ってるんだよ。例え彼が応えてくれなかったとしてもね。でも狼の社会では、その恋は口に出してはいけないものだから言えない。だから辛い。そうだろ?」


 レティリエの瞳が揺れた。マルタは狼の社会のことはよく知らないし、彼らの価値観もわからない。それでも、大人の女性として若い娘の恋心は理解ができた。


「狼の社会では、あんたは恋敵と一緒に戦いの土俵に乗ることも許されてないんだね。あんたはそれが辛いのさ」


 マルタの言葉を聞いて、レティリエの心臓がドクンと脈打った。今の言葉がストンと胸に落ちた。確かに、想いを告げた上でグレイルが別の女性を選ぶのと、何もしないまま恋を諦めなければならないのは自分の中では大きく違う。


「あんただって狼だ。戦う権利はあるはずだよ」

「でも、村の皆を巻き込んでしまうことになるわ……」


 もしかすると、グレイルは自分の気持ちを知って、それに応えてくれることもあるかもしれない。彼は優しい人だから。けれども、そんなことをしたら今度はグレイルまでも村の皆から白い目で見られてしまう。弱い雌を選ぶのは、強い雄としては許されないことだからだ。

 

 そう。この恋はどちらに転んでも幸せな結果をもたらさない。恋が成就しなかったとしても、優しい彼はレティリエの想いに応えられなかったことをずっと気にしてしまうだろうし、仮にグレイルが応えてくれたとしても、それは村の皆から新たな村のリーダーを奪ってしまうことを意味する。それならば、何もなかったことにして自分の中だけで終わらせてしまう方がずっといい。


 そう思っていたはずなのに。


 レティリエはもう後戻りできないところまで来ていることを知ってしまった。この恋は、自分の中だけに閉まっておくには、あまりにも大きくなりすぎた。


「あんたはさ、幼馴染みなんだろ? あの子がそんな同情心でそんなことするように見えるかい?」


 レティリエの心中を見透かしているかのように、マルタが言った。


「あんたと比べると付き合いが浅いけど、あの子は個人の感情と自分の役割を混同してしまうようには見えないよ。あんたの気持ちを知ったからと言って、自分の役割を放棄したりはしないはずさ」


 付き合いは短いが、マルタは人を見る目には自信があった。ここ数日における集落でのグレイルの働きぶりは、異種族と思えないほど素晴らしいものだ。真面目で責任感のあるあの青年は、生半可な気持ちで答えを出さないだろう。


「そして、あの子が本気で出した結論なら……あんたは理解して受け入れる。そうだろ?」


 レティリエはコクリと頷いた。そうだ。自分達はそういう信頼関係で結ばれている。お互いがお互いの意思を尊重し、それが互いの意にそぐわなかったとしても最終的には受け入れてくれることを知っている。

 恋心を諦めようと思うあまりに、大事なことを忘れてしまっていた。

 マルタの言う通り、自分は安心して想いを告げていいのかもしれない。もしフラれてしまっても……彼が出した答えなら自分は納得できるはずだ。


「そうさ。だからもしあんた達がうまくいったとしても、それは同情なんかじゃなくて彼の本心さ。あんたも受け入れるんだよ」

「えっ……う、うまくいくだなんて、そんな……」

「おや私はね、あの子は意外とあんたを選ぶんじゃないかと思ってるよ。頑張りな」


 そう言ってマルタはいたずらっぽく笑った。


「他の狼達の目が怖いって言うなら、今ここで伝えちまったらどうだい?」

「あのっ、それはまだ心の準備ができていません……」

「はっはっ。冗談だよ」


 マルタの言葉を聞き、レティリエは真っ赤になってうつむいた。グレイルと夫婦になる……考えたこともなかったし、レティリエ自身はフラれるだろうと思っているけど……それでもできるだけ頑張ってみたいと思った。


「狼は強さが一番なんだろ? 本当に好きなら、最後まで諦めずに戦いな」


 マルタの激励に、レティリエは今度こそ「はい」と力強く答えた。胸の痛みはもう無くなっていた。


「マルタさん、ありがとうございます」

「あんたもあの男の子もいい子だからね。うまくいくよう祈ってるよ」


 そう言ってマルタはレティリエを抱き締めた。レティリエもマルタの背中に腕を回す。 

 温かい体と、すべてを包み込むような優しさは、孤児院のマザーを思い出させた。


 母の温もりだった。

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