第19話 恋の苦しみ

 次の日から、レティリエはマルタに頼んで料理や裁縫の仕事をこれまで以上にさせてもらうようお願いした。


「それはありがたい申し出だけど……あの男の子の怪我が治ったら村に帰るんだろ? 少しでも休んでおいた方がいいんじゃないのかい?」

「いえ、私がやりたいんです。やらせてください」

「わかった。それなら他の女達に聞いておくよ」


 ペコリとお辞儀をして頼むと、マルタは怪訝そうな顔をしながらも了承してくれた。レティリエはお礼を言ってその場を去った。


 今預かっている繕い物を持って石細工の工房付近へ移動する。

 ドワーフの集落は、地下全体が作業場の様なものだ。皆思い思いの場所で作業ができるよう、至るところに机や椅子などが置かれている。

 レティリエは工房のすぐ近くに敷いてある絨毯の上に座ると、チクチクと布を縫い始めた。最近はこの場所で作業をすることが多い。集落の様子が一番に見える場所だし、人通りが多くて賑やかだからだ。たまに通りすがりのドワーフが話しかけてくることもあり、世間話をしながら縫い物をするのはとても楽しい。

 けれども、今日はいつもと違って鬱々とした気持ちだった。


「……っ! いたっ……」


 布に針を通した瞬間、指に勢いよく針を指してしまい、痛みでハッと我にかえる。手元は正確に糸を通しているが、意識は全く別の場所へ飛んでしまっていたようだ。

 レティリエはため息をつくと、縫いかけの衣服を膝に置き、何もない空中を見上げた。グレイルのことを考えないようにしようと思って仕事を分けてもらっているのに、集中できていない自分を情けなく思う。


 レティリエはグレイルから少し距離を置こうとしていた。今まで彼への気持ちを抑えられていたのは、物理的な隔たりがあったからだ。毎朝何かと用事を作って彼と話す機会を作っていたりはしたが、それでも一緒に過ごすのは朝のほんの一時だけだったし、用事があって一緒に行動することはたまにしかなかった。

 だから、こうやってまたグレイルと少し離れたら元の気持ちに戻れるはずだ。レティリエはふるふると首をふって気持ちを切り替えると、手元に視線を戻した。

 ともかく、やりかけの作業を終わらせてしまおうと思った瞬間、嗅ぎ慣れた、愛しい人の匂いが近付いてくるのを感じた。顔を見なくても誰なのかわかった。そっと顔をあげると、今しがた思い描いていた彼の姿があった。


「グレイル……」

「マルタさんから差し入れだ。朝からずっと座りっぱなしだろ、少し休憩した方がいいぞ」


 レティリエの前で屈んだグレイルの手には真っ赤なりんごが乗っていた。


「あっうん……ありがとう」


 やりかけの縫い物を脇に置いてりんごを受けとる。グレイルはレティリエの隣に座り、怪訝そうな顔で見つめた。


「レティ大丈夫か? あまり根を詰めすぎるなよ」

「だっ……大丈夫よ。私から頼んでやらせてもらってるの。少しでも皆の力になりたいから」


 皆の為だなんて嘘ばっかり。心の声が自分自身を嘲笑う。

 本当は自分の為のくせに。彼を忘れる理由にしたいだけの癖に。慌てて笑顔を見せるが、うまく笑えている自信がなかった。

 気まずい気持ちを隠すように、レティリエは受け取ったりんごに口をつける。甘酸っぱいりんごの香りが口に広がった。


「そうか。何かあったら俺に言えよ。……じゃあ、俺はもう行くから」

「うん。りんご、ありがとう。マルタさんにお礼を言っておいてくれる?」


 わかったよ、と笑ってその場を去るグレイルの後ろ姿をレティリエはじっと見つめた。

 今までなら、グレイルがこうやって自分を気にかけてくれると嬉しくて、その日一日はなんとなく晴れやかな気持ちになったものだ。こんなに悲しい気持ちになって彼の姿を見る日が来るなんて思っても見なかった。

 レティリエはかじりかけのりんごを手に持ったまま、グレイルが去った空間をじっと見つめ続けていた。




 その日から、レティリエはがむしゃらに体を動かした。毎食の料理の手伝いは当然のこと、日中は子供達の面倒を見、夜は遅くまで繕い物をして過ごした。狩りの手伝いは、子供達の相手を言い訳にしてグレイルだけに行ってもらうことにした。

 これでいい。この生活が続けばきっと元に戻るはずだ。


 レティリエはその日の晩も、遅くまで繕い物をしていた。地下にいる為に時間の感覚はわからないが、作業をしていたドワーフ達が一人、また一人といなくなり、ほんの数人だけしか動いていない所を見ると、大分夜も更けた頃合いだろう。

 レティリエは最後の一枚を縫い終えると、裁縫道具を片付けた。こうやって夜遅くまで作業をすることで、グレイルと寝る時間をずらしているのだ。

 案の定、部屋に戻るとグレイルは寝台に横たわり、深い眠りについていた。

レティリエも寝る仕度を整え、寝床に入る。そっと布団に入ったつもりだったが、寝台がわずかに軋み、グレイルがこちら側に寝返りをうった。

 寝台に置いてある蝋燭の光が揺れ、グレイルの胸元を煌めかせる。よく見ると彼が身に付けている首飾りの石が、光に反射して輝いていた。薄く透き通った水色の石が、存在を主張するようにチカチカと瞬く。

 レティリエは無意識のうちに首飾りに手を伸ばし、指の腹でそっと撫でた。


 この首飾りは、グレイルが孤児院を出ていく際に、レティリエが一世一代の勇気を振り絞って渡したものだ。レティリエの胸に懐かしさが込み上げる。

 


 あれはグレイルが群れに所属することになり、孤児院を出ることが決まった頃だった。

 既にグレイルに対して仄かな恋心を自覚していたレティリエは、応援する気持ちと寂しい気持ちが入り交じった複雑な想いを抱いていた。

 その時、村の誰かが「人魚の涙」という石があることを教えてくれた。それは人魚が恋した船乗りに贈るもので、航海の無事を祈るお守りになるらしい。

 レティリエはその話を聞き、どうしても彼にその石を贈りたくなった。来る日も来る日も人魚の入り江に行き、人魚の涙という石を探した。

 毎日飽きもせず入り江にくる小さな狼の少女を見かねたのか、ある日一人の人魚が笑いながらレティリエに首飾りをくれたのだ。


「あなたの一番大事な人に渡すのよ」


 そう言って美しく微笑んだ人魚の顔を、レティリエは今もしっかり覚えている。





 レティリエは首飾りの中で上品に納まる石を眺めた。

 幼い頃の思い出を、肌身離さず身に付けてくれていることにくすぐったい気持ちになる。彼が自分に抱いているのは、仲間に向ける信頼なのか家族に対する慈しみの心か。そのなかに一匙でも思慕の情があることをほんのりと期待してみてしまう自分を、レティリエは恥じた。

 首飾りに触れていた指を下に滑らせると、鎧の様に厚い胸板に指が触れる。この逞しい腕に我が身をかき抱かれる場面を想像しなかったというと嘘になるが、その望みが実現するのはあり得ないだろう。

 頭では理解もしているし、諦めてもいる。しかし、彼の姿を目にしてしまうと、心の奥に閉じ込めていた想いが、泉のように沸きだしてしまうのだ。


 レティリエはグレイルの頬にそっと触れた。彼は村でも一二を争う程の実力者だ。例え寝ていても周囲の異変にはすぐに気付くし、いつでも臨戦態勢に入れる。肌に微かに触れただけでも彼はそれに気づくことができるのだ。

 それでもグレイルは目を覚まさない。きっとそれは今、周囲にレティリエしかいないことをわかっていて、なおかつ自分の存在を受け入れているということを意味する。


 レティリエの心が切ない恋しさで溢れ、身を乗り出すとグレイルの口元に唇を寄せた。

 グレイルの高い鼻梁に自分の鼻先がかすめる。今にも唇が重なり合うその時、レティリエは目をしばたかせそっと彼から身を引いた。

 きっとこの一線を越えたら、もう後には戻れないだろう。

 心が悲鳴をあげ、やがて痛みに変わった。もうダメだ。レティリエは痛む胸を抑えながら静かに部屋を出ていった。





 レティリエはドワーフの地下集落を出て地上にあがった。もう丑三つ時の頃合いに近いはずだが、外は意外と明るい。空を見上げると、銀色の光が辺りを照らしていた。

 今夜は満月だ。レティリエは月がよく見えるように、一際高い丘の上にちょこんと腰かけた。眼前には、闇の世界を照らす美しい銀色の月が佇んでいる。

 月は昔からレティリエの友達だ。辛いとき、寂しい時はいつもこうやって月を眺めて心を慰めていた。

 

 レティリエは自分のキリキリと痛む胸にそっと手を当てた。理性で蓋をしていたつもりが、幼い頃に抱いた恋心はいつの間にか溢れんばかりに膨れ上がっていたのだ。知らず知らずのうちに、彼のことをこんなに恋しく思っていたことに我ながらびっくりする。

 でもきっと彼に触れてもらえるのは、自分とは別の女の子だ。彼の隣を歩くのは、強くて、たくましくて、気高く美しい女性こそ相応しい。

 そう、例えばあの赤髪の美しい狼のように。

 

 仲睦まじく歩く二人の姿を想像してしまい、レティリエの目から涙が溢れた。

 生まれて初めて、他の女の子に嫉妬していた。そしてそんな自分は多分今、とても醜い顔をしているのだ。レティリエは膝を抱えて顔を埋めた。お月さまに、こんなに汚い自分を見られなくなかった。

 

 胸が苦しい。痛い。息ができない。

 

 とうとうレティリエは堪えきれず嗚咽を漏らした。一度声を発してしまったら、もう戻れなかった。涙があとからあとからあふれでて膝を濡らす。

 レティリエは張り裂けそうな胸の痛みと共に月明かりの下で咽び泣いた。

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