第5話 パサーテ

 *****

 体が腐り堕ちた。わたしの肝臓は変色し、腹腔内を暴れまわる。膵臓も溶け落ち張り付くのを感じている。

 わたしは失われた。わたしはここにいる。スノードームの中にいる。部屋の中で見知らぬ男女が交接を続けて、本当にさようなら。

 *****


 わたしは雪の降る中に幻を見る。

 寒い中、わたしは、しずかに。

 なにか運命的なものが冬と雪の中にはあるんだ。と、感傷的にこどもの時の思い出を見る。

 夢の中のルールは単調で、壊れていくものをなおさない。かさなって、あわさって、まざる。

 いま見ているものは?

 わたしのなかでしずかに変わってしまったもの。味覚。

 誰かを待って、仲たがいして、そうして味が無くなった。だから今日も待っている。

「お待たせ、さ、行こうか」

 食事をとるために、わたしはここにいた。このひとと食事をする。大きな娯楽施設の周りのイルミネーションと、いやに大きく聞こえる足音に埋もれて。

「いつもありがとうございます」

「いや、いいんだ」

 こんなにも明るい場所にいるものだから、今日はとても寒い。早く暖かい場所に行かないと。そう思っていたら、来てくれた。

 食事をとるために、わたしもこのひともお願いし合った。小さいカウンターの隣同士、いつものように声をかけて。

 それほど積極的にならずともよいかもと先生は仰っていたけれど、わたしは必要かもしれないと思った。

 このひとはどうだろう。毎日夢の中での遊びを日記に書くと言っていて、外側のビジネスマンと違っていると思う。なにか、官公庁に向けに卸す仕事と言っていて、とてもむつかしそうだなと感じた。

 そんなことを口にすると強張った笑いで否定して「私なんかはやっとの思いで」とハンカチで口を拭っていた。

 イルミネーションから遠ざかるようにして、電車の高架下を通れば人通りも少ない。わたしとこのひとが鳴らす靴の音が半拍ずれて追いすがる。

「先生とお話しする仕事は、順調ですか」

「えっと、そうですね」

 お話をするというのは順調とか、そういうものなのだろうか。会話を交わして、今日は調子が悪い、常にここにいるのですか、小さな生き物って素敵なんですよ、人間がねたまに目線で喋ることがあるけれど、それって磁力の変化を感じているんですよね。薬と対話とアンバレット、正方形の中でマインドフルネスをするといいのかもしれないですが、超新皮質が変わってくるのでね。

 わたしは、しずかに考えないといけない。先生とのお話は騒がしいもの。騒がしいものがお仕事だから。

「いつも通り、お仕事はお仕事です」

「じゃあ、順調かな。今日は、そこだよ」

 このひとは対話をそれほど求めてこないから好きだと思う。お話はお仕事でそれだけ気を遣わなくちゃならない。わたしのぶっきらぼうな言葉にも穏やかに接してくれる。

 今日の食事はなんだろう。はじめの頃は、わたしと交互にお店を選んでいたんだけれど、いつしか選んでくれるようになった。

「食事に大切なのは対話なので、選ばせてください」

 わたしが前日まで悩んだ末に選んだお店は学生たち御用達でした。

 ということがあって、わたしはその言葉に甘えている。

「素敵な店ですね、いつもありがとうございます」

 Pasprefu、と書いてあるのかな。綺麗なガラスで作られた崩し文字の店名は雰囲気を伝えるのに一役買っていて、正確な名前はちょっと自信がない。

 だからここは、見た目を満足する食事だなと思う。聞いたことない単語、どこかの地名かもしれない。


「席以外は暗いね、メニューも立派だ」

 わたしは暖かい店の中でコートを預けたのがちょっと気になっていた。例えば、椅子に掛けて引きずるのが気になるような、びまん。

 店構えと同じようにメニューも見た目を満足させてくれるものだった。深い赤と肌触りの良い生地が張られていて、ずっと触っていたい。

「じっくり見ているので、大丈夫です」

「うん。うん。」

 けれども適度なタイミングで中に書いてある文字列のどれかを選ばないといけない。どれもが日本語と英語以外で書かれているような気がする。

 ここは一体どんな食事なんだろう。見渡すとすぐに店員さんと目が合う。にこやかに頭を下げて近づいてきてしまう。察してもらうより言葉で伝えないと何か気まずい。

 各テーブルは間接的に照らされて、その1つ1つが浮かんでいるように見えるから、尚更のことそれが目立つ。

「ああ、すみません」

 このひとはもう決まっているから、わたしはええいと流れに任せなにを言うのかを待つ。

「今日は深い海の味と穏やかな飲み物でお願いしますね」

「承知致しました。マトイ様はいかがいたしますか?」

 わたしの名前を呼ばれて不思議に思う。けれども答えないと。このひとは目を閉じていて、店員さんは期待を込めてわたしを見る。

「そうですね。その逆でお願いできますか?」

 まったく分からなかったから、わたしはこのひとの違うものをと思ってそう答える。目鼻立ちの整った中年の男の店員さんはにこやかに頭を下げる。

「承知致しました」

 メニューにはどちらも書かれてない。店員さんが去って、わたしは聞いてみる。

「えっと、名前って教えてました?」

「初めて聞きましたよ。不思議だなあ」

 声は響き、ここにあるようなのに、ここにはわたしたちしかいないように取り残されたみたいで少し落ち着かない。

 わたしもこのひとも、名前を知らないまま食事しないといけない。それは暗黙のルール。

 ということもなくて、その必要がなかった。食事をとるためのひとだから。

「ちなみに、私はシノザキマコトと申しますので」

 言わなくてもいいのに。真面目な性格とわたしの型はそんなに合わない。

「ここは、1度来たことがあるのですか」

 このひと――シノザキさん――はどこでも落ち着いている。落ち着いているから、初めてのことなんてないように振舞えるのだ。

「いいえ。ここの店名は2度入ることはできないという意味で、ちょっと面白いと思いません?」

 Passate.イタリア語で経験や過去を示す。けれどもここの店はイタリア料理じゃないし、店名はPasprefuと書かれていたけれど、きっと雰囲気が味わえればいいのだろう。

 だって1度しか入れないのなら、その後、食事をとるひとが誰1人いなくなってしまう。そんなお店がやっていけるとは思えない。言葉のだろうし、雰囲気はいい。

 他の席も全てうまっている。けれど他のひとの声はまったく聞こえない。不思議な空間のお店。食事の音も、においも、こちらまで届かないのは、少し寂しい。

「お待たせ致しました。凪いだ水面と実りの欠片です」

 すぐに飲み物が運ばれてくる。凪いだ青と、弾ける桃色がテーブルに音も立てずに置かれる。

「ありがとうございます。これは、グラスも綺麗ですね」

 グラスは深い赤と黒が合わさったような色で、さながら天が抜けた地底湖のような雰囲気がある。

 わたしの方へ置かれた飲み物はもの悲しさを感じる灰色のグラスに湛えられた柔らかな液体が弾けては雪が降り、滞留していた。

 その両方を見て、シノザキさんは満足げだ。

「面白いですね。これは、ノンアルコール?」

 わたしはお酒が飲めない。なにからなにまで想像していたお店と違っていたから、すっかり忘れていた。

 そう言うと、承知していた様に店員は頷く。

「ええ。お楽しみください」

 するりと店員は消える。シノザキさんはさりげなくテーブルに腕時計を置く。透き通った青色の秒針、白と黒の針。文字板はなく、ただ針が巡るだけ。

「これは、私のお爺さんが作ってくれたもので、1点モノなんだ」この前鉄板を眺めながらそんなことを言っていたから、わたしにも作ってくれないかと言うと悲しそうに頭を振った。「もう、作れないんだ」そんな、思い出の品。

「はい、乾杯」

「ん、はい」

 わたしはグラスに余計な傷を付けたくなくて、杯を交わすふりをして一口運ぶ。あまり味はしない。

 炭酸はなくて、口の中でぱちぱちと弾けた。そして、遠くの方で果物の香りがする。

 シノザキさんはクッと一息で飲んでしまう。飲んだ後、どんなにおいしくとも変わらずに、

「アルコールはいい」

 なんて言って、グラスを観察してる。

 もう一口。なんだか昔食べた駄菓子を思い出す。万引きをしていたハルちゃんに注意したら、それだけで学校に来なくなった。それほど悲しいことだったから、みんなもわたしを責めた。「どうしてそんなちっちゃいことで」その理由は今も分からない。

「不思議な味がします」

 わたしの言葉にシノザキさんは頷いてグラスをテーブルに置く。余計な肉のない固そうな手を開いては閉じる。

 食事の時間。これまでに653回、シノザキさんはこれで28回目でまだ2か月も経っていない。大抵のひとはだいたいこれくらい付き合った後に離れていく。わたしからも相手からも。

 食事はとてもむつかしい。だからわたしはじっくりと料理を味わえなかった。

「どうして味覚、薄まっていくのでしょうね」

 わたしに聞かれても分からない。味が薄まってしまうから、誰かと食事を摂るのが大事だって言われているから、とにかくそれは誰かと一緒にしなければならない。だからこうやってシノザキさんもわたしの目の前に座っている。

「先生がパラドックスなんだと言っていましたけど、わたしにはわかりません」

 味がないと食事に価値が見いだせなくなるから、精神を病んでしまう。味がなくても食事は生存だから、柔らかさの異なる粘土を口に運ぶだけの人間もまた、病んでしまう。価値観だけが異なる両者が共に精神を病んでしまう。

 むかしそんなことを実験した人がいたらしい。先生はそのことを話していた。

 けれども、誰かと食事を摂るのはいいことだ。わたしはこのむつかしさを少し期待してもいる。

「こちら、前菜になります」

 わたしがもう一口飲むと、店員が前菜を持って来る。色とりどりのサラダにはふんわりとしたムースが添えられている。シノザキさんのグラスには透明で少しだけとろみのある液体が注がれる。

「ありがとうございます」

 食事をする。不思議な雰囲気の店で、わたしはシノザキさんが外向けの笑顔を向けているのを眺めている。

「食事、楽しいですよね」

 そう聞かれ、わたしはすっぱりと「楽しい」と答えられないでいた。


 *****

 わたしが何度も巡る時、あなたはそこにいるのか。それはあなたではないものか。

 食べないから体が腐り落ちた気がしたんだ。接吻を繰り返して、口を付けて、腹腔内に落ちていく。

 微細な痙攣と変わった心臓。食事をとったから、とらなかった時とはもうちがう。

 *****


「ありがとう、今日はどうだったかな」

 わたしがナプキンで口を拭っていると、シノザキさんはいつもと同じように食事について聞く。確認している、と言っても差し支えない。返す言葉はいつでもそれほどちがっていないから。

「おいしかった、です。不思議なかんじがして」

 食事は終わってしまえば忘れてしまうものだから、わたしはもう不思議な感じの中に入り込めないのか、少し不安だ。

「どうやったらああした人のことを分かり切ったコース料理が出せるのか。私はね、知りたかった」

 人の気持ちが分かるようになれば、家族とも上手くやっていけるかもしれない。そんなことを食事の時に話していた。わたしは誰かの気持ちが分かるようになりたいとはあまり思わない。

 白いティーカップに入った珈琲だけがテーブルに残っていて、今日の食事も味覚を保つために終わった。わたしは何かを喋っていたのだろう。シノザキさんの流れに沿っていた。

「付かず離れずの関係がいいです」

 食事も、料理も、先生も。くっ付き過ぎれば胃もたれを起こす。ひとの気持ちをわからないこと。お話をして、それが嫌じゃなければそれでいい。

 コーヒーの匂いは好きじゃない。どこか納豆の香りがしてくるから。だからチョッとだけ口をつけて、カップはそれよりも大きく音を立てる。

「それで、もうひと月経つ。違ったのかもしれない」

 シノザキさんは湯気の立つ珈琲を一息で飲む。このひとは食事をするのも早いし、どうしてわたしと続けるのだろう。ペースが合わずとも、一緒に居られるからわたしは安心できるけれど。

 そんな疑問を持った表情をしていたらシノザキさんは、

「これまで、食事をしてきた。味覚は薄いままだ」と軽く息を吐いた。

 味覚を取り戻すことが出来るとか、味覚を維持するなんて、むつかしいよ。

 お話を聞いて、喋って、じっくりと時間をかけないと。そう思っても、やっぱりひと月も経つとなにか起きるんじゃないか、そう思ってしまいたくなる。

「わたしは、楽しかったです。色々な発見があって」

 そんなフォローを入れてみても、シノザキさんの意思は変わらない。

「私はね、こうしたところで食事すれば何か変わると思っていたんだ」

 確かに食事は独特だった。わたしがほとんど何も伝えていなかったのに、苦手なものは出てこなかったし、メイン以外はとても懐かしい味がした。

「形式ばったものでなく、私にとって特別なものを感じられた」

 けれども、何も変わらない。どこか決め付けたように見える。いつも落ち着いているから、柔軟だと思っていたのも決めつけか。

「けれどもね、何も変わらない。味覚はどんどん薄らいでいくし、医者と話をするのも全く意味を感じられない。申し訳ないけれどね、マトイさん」

 期待してた。だから、どこかで損得を考えてしまう。食事でもそうなってしまう。

 わたしはさみしい。多かれ少なかれあるものを少し忘れられると思っていたから。

「どうしますか? 次回はありますか」

 いつもなら、そんな気を遣わないでください、勿論ですよ。と言ってくれていたのに、シノザキさんはもうすっぱりと変わってしまった。

 だからそんな風に聞いてしまった。

「いや、いい。今日はありがとう」

 席を立とうとするものだから、わたしは急いで引き留める。

「待ってください、それは駄目です」

「なぜ?」

 わからない。それを止めてしまったら、よくない影響がある。とは関係なしに、ただやらなければならない。

 は過去にも未来にもいけないから。シノザキさんの考えているようなことと違っている。

 だから生きないといけないからするものでもなくて、ただそれを分かってもらいたい気がしたから。

「テセウスのパラドックスってしってますか」

 食事は2度と同じものがないのは、その時その時しかないから。1度しか入れない。わたしは店の名前の意味を食事をしながら考えてた。

「はあ。知りませんよ」

 シノザキさんは耳を貸さず、席を立つ。落ち込んでいるから。

 やっぱり、決めてしまったことは変えられない。

 わたしも後に続いた。


 わたしはまた新しく食事の相手を探さないといけない。

 だから先生に電話をする。お風呂に入って、落ち着いた部屋のなかで空気に色を付ける。外に出たしるしのように、部屋の匂いを変えた。

「マトイさんかあ、やっぱり駄目だった?」

 電話が来る。もう結構な数になるし、同じような期間で終わるから先生も分かっている。遅い時間でも、気にせず答えてくれる。

「どうしてなんでしょう」

「食事ってね、けっこう個人的なんだよ。思ったより、イマだけだからアンビバレントだ」

 食べないといけないからするもの。毎日するものだから、無防備になる。その時間を誰かと気兼ねなく共有できるようになればいい。という狙いで食事をする。医学的な話は分からないけれど、先生は医者じゃない。もちろん、わたしも。

「また、お願いします。食事はしないといけない気がしているので」

 わたしは似たようなひとたちと食事をする。味覚を忘れないように、イマが無くならないように。

 それは過去、かもしれないけれど。

「なら、また見繕うから、頼むよ」

 待っている。先生との話は相変わらずだし、食事は続けなければいけないから。

 布団に横たわって、深く息を吸い込む。吐く。

 電話を切って、わたしは窓ガラスに張り付いては滴って消える雪の粒を見ている。


~終わり~

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