第6話 器がないから油が溢れた

 二時間前に家を出た。何をするでもなく、鈍った体を戻そうと近所をランニングしようと思ったもののすぐに息が切れて歩いていた。深夜に海まで歩こうと決めた。何をするでもなく、歩いて風を受ける。黒い重油のような海から油の纏わりつく臭いと僕の歩みが油にまみれて上手く歩けない。体に摂取させられたものは油で、油が体の七割を占めている。

 父親が趣味で飛ばしていたヘリコプターのラジコンは確かガソリンを使用していた。エンジンから排気される煙は少し黒く、空に飛んでいくのを見ていた。落としてしまえば炎上し、その炎上の中で騒ぎは収縮しない。そうして炎は世界が死ぬまで燃え続ける。

 燃え続ける海、気温は十度以上も上がった。熱を抱えて歩く世界で僕は深夜の海で体を焼いている。燃やせ、消えてしまえ。悪人が投げ込まれたあの騒ぎに僕は参加していない。自身の体が焦げようともお構いなしに投げ込まれる悪人は本当に悪人だったのか、それも分からないままだ。


 海、これは東京湾だ。湾の内側だけが燃えている。最後には海という海が燃え尽きる。そうならないように海底から水を汲む。わずかな水で僕は生きている。

 海に近づかなくとも熱気が漂う。海は明るく、未だに炎が続いている。人はわざわざ近寄ろうとはしない。近寄れない。

 そこに柵が敷かれいくつもの監視カメラが配備されている。近づけばすぐに顔が割れて僕は注意を、罰金を、損を貰う。けれどもその熱を感じたいと思った。体の中にある油がたぎるのを感じている。燃えるまで燃え尽きるまで僕らは生きる。燃やされたいと望む。

「接近禁止ですよ」

 警備の老人に注意されたから僕はその手前にある営業時間の過ぎたショッピングモールの手すりにもたれる。まだ冬だから薄着で外に出ても大丈夫。時代遅れの煙草に火を点けて胸に満ちて吐き出してちょっとした薬物の依存を楽しむ。

 それくらいしか楽しみがない。口先で燃えている炎が僕の体の中の油を燃やしている。生きていても燃えるだけです。疲れた様子で誰かが取材に答えていた。僕は家にも帰れずにここから燃え上がる炎を見ていた。

 三吸いもすればその味に飽きてしまい、火を消す。これまでの人生のように、中途半端に始めてみては結局その外側にしかいない。この炎の熱も、煙草も、体内の油でさえも僕を拒絶しているように感じた。


 炎は広がっていく。この国だけでなく、星だけでなく、全てに。


 熱に汗を流して家に戻るしかない。拒絶はあっても眠らなければならない。結局海まであるこうとしてもその外側を見るだけなんだ。世界で起きていることからは取り残され、どうしようもならない状況になってからようやく慌て始める。もう焼け焦げるだけしかないのに、体の油が無いと思い込んでいた。

 自分は焼かれるはずがない。そんなことは絶対にない。焼かれた者も動物も、自分とは違うものだから。海が燃え続けていても人々の生活はあまり変わらなかった。いつもの生活が出来てしまった。

 僕もその例に漏れず、先のことに目をやらずに煙草を吸っているのだ。

「こんな所で煙草を吸うのは止めてください」

 煙草の匙を管理する男にそう言われた。人間の油の総量は決まっていて、煙草を吸える量も決められている。それを超えれば僕らは自然発火して消えてしまうから匙の管理はどこにでもいる。

「管理していないのだから、いいじゃないか」

 自由が欲しいのだから吸わせてくれや、酒を飲ませてくれや。燃えるのは辛いことだから、止めましょう。という家無しの実例を見せられてうんざりする。はい、そうですねと言って男は離れていき、僕は煙を吐くのをやめた。

 管理とは名ばかりの声掛け。


 家に戻ろうとすれば、自我無き礼拝の集いを通り更に気の滅入ること請け合いで、仕事通りの沙羅が白い花を咲かせている。油のための木々と花と管理された火の量。細々とした調整が必要だからとねじを巻く役目が生じる。

 家までの帰り道を歩いていると燃える砂花地帯へ行きたくなる。もう深夜だから人通りは少ない。少ないから誰からも自由になれると思っていたけれどそれは妄想で以外にも誰かの目は必ずあるから、体の中の熱を取り去れない。僕は体が油で満ちているのは誰かの目のせいだと思うしそこから先に歩いて油が無くなることなんてないように思えた。

 熱の中で羽ばたく鳥には油が無いそうだ。だから軽くて熱を利用して空に浮かび上がる。その上に燃えない場所がある。行こうと思えば誰でも行けるし、そこで生活だって出来るのに僕はそうしない。そうできない理由がある。


 生きたな?

 それは非常にマズい。仕事もない。役目もない。

 生きたな?


 生きているのだ。ほらあれを見れば、問いが導出された。油と共に在れ。世界は選ぶのではなく反応なのだから、とにかく、そういうことだ。

 僕の足は砂花地帯へと向いている。湾の弓なりを進めば砂地と大きな花が伸びる場所が見えてくる。

 元々帰りたくなかったから、湾沿いの道を歩く。燃え上がる海の熱が僕の油を燃やしている。これは、匙の管理から外れている行動だってのも、分かってる。

 僕らは匙の管理で全てが決められている。燃えるも尽きるも油を無くすもそれ次第。

 僕は煙草を吸わなければならない。だってそんな理由で決められてしまったのだから。普通の暮らしが出来ているから大丈夫だよ。これから頑張ればよくなるって。そうやって蔓延はびこる楽観視も匙加減で決められている。よくなった感じだけが残り、より一層周囲のものを燃やして灰を増やすことしか出来ない。あの燃え上がった海と同じで、原油魚が泳ぎ、深海にもそれらはない。空と同じだから。

 みんなが灰まみれになって喜んでいる。大きな物事が動いても最終的に行きついたのは周囲の小さな家族だけ。辛かろうが楽だろうが、結局そういった所に落ちていく。決められてしまったから、それをよくなったと思い込む。


*****


「こんばんは今日はいい天気ですね」

「こんばんは、そうですね」

 夜釣りをしている父親と鳥を探している娘に挨拶される。

 僕は砂花地帯にいた。油の底を抜けて魚を釣ることなんて出来やしないのに、その油の流れを感じれば上手く出来るんだよとバケツに一匹のハコフグが入っていた。

 食べようとは思えない。そもそもバケツに湛えられた水はどこから持ってきたのだろう。少なくとも、この湾からじゃない。

 無言で双眼鏡を手渡されれば指さす方向を見るように示される。こんばんは、そこには星のない夜空しか見えない。大気の雲、油を降らせる雲、その外側を鳥は行く。見えないよと言おうとしたけれど、見えないわけじゃない。

「想像すれば獲れますから」

「もうおわりだよ」

 夜釣りの父親がそう言い、娘が僕から双眼鏡を取り上げる。砂花は転がり、足元で止まる。想像力が必要だ。ここに歩いて来るには自我無き礼拝の参加を誤魔化ごまかさないといけない。僕は近所に住む小さい頃の同級生にそれをお願いしている。

 僕を見て、

「礼拝が必要だと思いませんが、必要かもしれませんね」

 父親はそれだけ言う。二人は釣りと野鳥観察を続けている。それが誰かも分からず、初対面だった気がした。馴染みのある初対面に有ったような気分で僕はそこからずっと続く砂地を歩いていく。もう家に帰るタイミングを逸してしまったから。

「今はいらないや」

 とはいえ体の中にある油がじわじわと漏れ出すのを感じる。自我無き礼拝それをしなければ油が漏れ出るのかもしれない。煙草はもう後二本くらいしかない。想像すれば三本にでも四本にでもなるけれどそれはしてはいけない。あのハコフグと同じ。


 ここで出会うには少々心許無い。

 歩けば歩くほど家は分からなくなる。砂花地帯も数キロしかない小さな場所だから、夜釣りの父親と娘だけしかいなかった。

「こんにちは、こんばんは、きょうはどうして」

 だから砂地をそれなりに歩けば葦が広がる。その原の中に油が薄く水を湛えた場所がある。大きな水たまりの中で油のない子が育つ。長くは生きられないと、諦める人も多い。

 ハコフグの水はここから来ている。

「こんばんは。渇くんだ」

 僕はその子に会うために家を出たのかもしれない。居るなんて分からないしすぐにでも礼拝をしなければいけない風に感じていた。けれども歩いていて目が合ってしまったから。

 ここに来てしまったから。

 そこに住まう子達は不可侵だと決められている。原住民は様々な場所で自然発生的に現れて油と炎から離れた生を得る。


 こうやって油まみれの僕がアクセスするのは禁じられている。

 池を汚した。汚れているのは油まみれだから。


「どうでしょうか、一つこれをすすってみては」

 その子の隣に背の高い原住民が立っている。茶褐色の肌と無数に刻まれたシワが肌を岩のように見せている。笑顔はなく、ただそう言ってみただけにも思えた。

「油まみれなのに」

 ゆずられた液体の上に誰かの油が浮いている。それは僕の近所に住む長沼さんのものだと分かる。他人の油を見分けるのは簡単だ。誰でもそれを植え付けられているから。

 液体自体は油じゃない。綺麗な器に湛えられた液体から上の油だけを葦の穂で拭って、清浄な水がある。飲み過ぎで死んでしまう液体それが水。

「まあ、気にしなさんな、ほら」

 僕は黙って原住民の大きな方が促す通りその液体を飲み干す。甘く、青臭いスイカのような味が喉を通り抜ける。油分が剥がれピリピリと傷む。

 原住民と認定された彼らと僕らの文明レベルは変わらない。同じように車にも乗り、学校へも行き、同じような家に住み、生活している。違うのは体が油で満ちているか、水で満ちているか、それだけしか違わない。

 この葦の少し先に住宅地が見える。油と炎から離れている。この場所は自我無き礼拝と同じ様に、彼らが持っている儀式。自我のクロマトグラフィーを行うための場所で、代わり替わりにこの場所の水を絶やさないように管理をしていた。深夜でも柔らかな暖色電灯が点き、葦で覆われた小さなプレハブがある。

 僕は意味もなくここへ、禁じられている。あの液体を飲むのも禁じられている。言ってしまえばそれだけをわきまえていれば彼らと僕らは同じだ。そこを超えてしまえば罰を受けてしまう。僕は罰を受ける、植え付けられた罰を受けなければならない。


「全身から油が抜けて、それから」


「炎を消さないで」


 そんなことを言われながら僕はプレハブ小屋でパイプ椅子に座り込む。

 体に力が入らない。ハレーションが目の前できらめく。視野が欠けている。

 あの液体を飲んでからしばらくすると気分が悪くなるからと勧められた。パイプ椅子。オマケ程度のクッションは固く冷たい。

 歩き疲れていたからちょうど良かった。汗が身体から流れていくのを感じる。ぼやぼやとした気持ち悪さがこみ上げる。

 炎を消さないでと言うのに、僕の体から油が抜けている。いつか燃え尽きるために体に入れられた油なのに、僕から炎が消されてしまう。何故こんな場所に来てしまったのだろう、頭が痛むのは油が抜けているからだ。


「ここで火を点けてはいけませんよ、抜いておかないと」


「dumds ehi tula cwo mumds ehi tula cwo」


 火をけさないでおかないといけないのにつけてはいけないんだ。


 炎の中に入れ、泥の中へ水を得よというのは彼らの言葉だ。言葉は分からない。僕は燃える海の中にいる。炎は残り続ける。丸まって砂岩の陰で炎から隠れて住むスナアブラガニの世界がここに在る。横歩きで油にさらわれないように砂地の中に隠れる。幼い日の炎は目を焼く。焼かれた子供たちの目は黄色く輝く。焼かれなかった子供たちの目は開かれずに大人まで取っておかれる。煙草の煙で回るのはニコチンではなく脳髄のうずいだ。誤って両目が焼かれた。その少女の絶叫がずっと耳に残ったままに逃げ帰った自宅。ジャングルジムに小さな電波塔を隠す。これが炎だよ、目が見えないのだからそれで突き刺せ大丈夫もう絶叫は一生分使い果たしたから極限まで喉が傷めつけられてその後に自我無き礼拝が始まった。少女は大人になり少年は子供のまま目を焼かれなかった。油が溜まり流れそして燃え尽きることが出来ないまま骨盤が落とされる。怒りとは愛の朝焼けに他ならない。冷たく固まりつつある泥と憎しみが炎で昇華しょうかされる様が美しいだなんて思える。焼かれた両目はもう輝くことはないから自我無き礼拝に僕は向かわなければいけない。そうして輝きを失った瞳を見て投げかけて薄まった茶色色素の失い始めた眼球と毛細血管の広がりだけが残る。ああ痛いんだよけてしまったから灼けなかったから子供なら焼いて。差し込まれる熱、黄色に輝く視界、あの女が少女だったのは大人になるためだ。大人になれば焼く、灼熱を当てる。少女に絶叫が口から飛び出す振り乱される二次性徴最中の乳房零れ落ちる唾液絶叫に恥じらいなくここに在り唯一の音それだけだ小さく助けてなんて言えないのだからほら泥へ戻れ水を得よそうして残された声帯の裂け目と炎で引き攣った肌。ここでは火を点けてはいけないそれは絶叫で怒りで憎しみとは炎で抹消されなければならないのだから。少女は怒りと共に大人になった。憎しみを炎で焼き尽くすために、海は炎上し油が体に挿入される。未だに見たことのないその女がここの上に立つ。誰か炎を止めてくれないか、あの両目を焼かれた少女の儀式を止めてくれないか自我無き礼拝に並び礼賛する炎で灼けと滅せよと自我に襲い掛かる。どうしてもここにいられないのですかやらないのですか罰は炎で目を焼くことですから覚悟は必要ですがその機会は得られませんからね。僕は水を得た後に炎の中に入る。遺灰は置いて吐き捨てろ早く燃えろ燃えない水を得たからあの少女に対抗できる唯一はそれで原住民はそれを知っていてだからこそそれを焼かなければならないというのが油を体に入れられたものたちでそれが僕で今油は取り除かれた悲惨なフォークロアを語る少女たちの中へ走れ少年は少女の真似をしていた少女は少年だった男と女は別物でそれらと少年少女は一線を画した。誰も分かっちゃいないのさ炎で焼かれることも炎の中に入ることもあの液体を体内に含んだ時から決まっていた。


「助けがいるかい、それとも……」

 提案があった。頭は下に落ちるより他ない。


 僕は廃墟で火の点いた煙草を半分だけ口に張り付けて涎を垂らしている。

 お願いします。どうにかしてください。ここから帰れないのだから、帰らないで燃やしてくださいね。ぼんやりとした記憶とぐにゃりとした肉体が留まる。

 腕に焼かれた後が残っていた。プレハブもあしも原住民もいない。哀れに垂れ流された糞尿と汚れた僕だけが地面に座り込んでいた。

 目が焼かれた少女たちの行方は分からない。この世界がそうなったのは彼女たちのせいだと誰かが言っていた。もしくはあの酩酊めいていの最中か。

 追わなければならない。自我無き礼拝を避けてしまったのだから、目を焼かれた少女のことを今更思い出してしまった。あの叫びは白昼夢か、僕はそれを確かめたくて外へ出たのだから。

 礼拝が消えれば少女は現れる。そんなことにも気づけなかった。それだけ僕の体には油が詰まっている。ざわめく意識がある。外へ出ても、何を追えば少女に辿り着くのかが分からなかった。礼拝無しの体からはもう油が抜けてしまった。体は動かし辛く、きしむ。

 目を焼かれた少女を探すにも、もう元居た場所からアクセスすることが出来ない。原住民なんてものはもうかなり昔にいなくなった。僕はあの儀式を再現してみたくて、家を出た後に人のいない廃墟はいきょまで原付を飛ばした。

 はみ出し者達がボヤを出して人が寄り付かなくなったその場所は焼け焦げた地面とすすけた落書きが壁一面に描かれている。意味のない単語と何かのキャラクターが笑う。


 ここにはない。少女たちへのアクセスは具体的で実存的なプロセスを負わない。それらは意識の中にある。現実の中にある。ここに存在する。礼拝の最中に姿を現す。


「essties tha-sew erascit bea sersue」


 助けておくれよ。少女が滅されない。


 ヴィヴィアン A L I C E  T  S  U  B  A  K  I


 壁面一杯に描かれた少女を関する概念がある。誰がそんなことに頭を働かせたのだろう。こんな場所にいるヤツは粗野そやで、違法に油化した半端ものでしかない。

 けれどもそれは僕が偏見を抱いているからだ。半端なものなどいない。ただ油がまっているだけなのだから。

 目が焼かれてしまった。僕の腕を焼いている。廃墟の外は真っ黒な森の中で、懐中電灯がないから煙草に火を点ける。点けた。煙草は常に気休め以上の意味がない。現れたのはそこかしこの悪夢。現実とはなんだったろうか。

 持って来ていた蝋燭は三センチもない。長い間燃えていた。

 いいでしょうか、ここからどうすればいいかなんて簡単じゃないですか。喰らったのは悪意だけだ。あの液体は外れるために飲んだのだから。

 足元はよくわからないものでぬかるんでいた。僕の下半身は排泄物でぬかるんでいた。こんな汚いままでは何も成すことが出来ない。


 とにかく、ここからは離れないと。

 小さな蝋燭に手をかざし、もう油が燃えていないのを感じている。


*****

 どこかの多目的トイレで汚物を洗い流し、夜がいつまでも終わらない現状に驚く。

 時計は10:00を示す。もう火が昇り、誰もが活動を始める時間だった。けれども道路の車通りは少なく町はまだ眠りこけている。

 ここから先は分からない。礼拝の始まった場所に僕は向かっていた。それらは内陸の炎上し続ける湖だから、まだまだ北上しないといけない。

 原付は泣きながら峠を越える。力なく進んでいく。

 そうして都市から離れ、山の中を進む。誰もいない。小さな集落にも、畑にも、都市を目指す車もない。

 だから歌っても、バーカと叫んでも、誰にも文句は言われない。

 これが自由なんじゃないか、自由ってのは責任があるんじゃなかったか。

「油なしの検問です」

 そんな調子で上っていたら、カラーコーンと大きな深緑の車が道を塞いでいた。

 なにもない山道を原付で上っていたら止められた。声をかけて来た人は警官でも何でもないように見える。油なしの検問。初耳だ。

「ええと、なんですか」

「なしですよね? ついてきて」

 声からして大人じゃない女の声。深緑の角ばった車に乗って、そのままついて来るように手を振られた。

 僕に油が無いことを知っている。決めつけるような口調だったものの、それを不快には思わなかった。

 だからあの少女はなんだ。

 他に誰も乗っている様子はない。車は電気で動く。原付は排気ガスを吐き出す。

 ついていく、といってもこの先には湖とその上で燃え続ける火柱しかない。目的は僕も彼女も同じ。

 規範きはんに寄らないものが自由な指示をする時、大抵がよくないものだと知らせてくれる。けれどもついていく。というより、炎上を続ける湖への道はずっとこの先だ。

 僕には選択肢がない。そんなものは無視してしまえばいい。

 けれどもやらなければいけない。自我無き礼拝を破壊するために油を抜いたのだから、こんな意味不明なことに関わっている時間はない。


 原付の速度じゃ山道を上るのもやっとで、けれども深緑の車はそれに合わせて先導する。僕は抜くことも戻ることも出来ずにそれに続くしかない。実のところあれが少女なのかもしれない。サングラスをかけていたから確証はないけれど、片目が黄色く輝いていたように見える。

 この世界を変えてしまったのなら、それは糾弾きゅうだんされなければならない。礼賛らいさんする炎は太陽にも等しい。目を焼くのだから、その後に打ち込まれた僕らはその理由を問わなければいけない。

 しばらくずっと後ろに着いていくと、看板に道の駅の表示がある。前から手が出て来て、そこへ入るように伝えられる。

 細く、まだ年月を経ていない手は、不釣り合いだ。

 僕は喉が渇いていた。油が抜けきった後を埋める水が不足している。しかし水なんて売っているだろうか、油の飲み物はある。流すための水はあるがろ過されてない。

 山道は上りが終わりかけていた。オレンジの電灯に照らされる。表示板には500mと書いてあったから上ったらすぐ見えてくるだろう。


 そうして見えたのは道の駅と、炎上する山。炎上しているのは湖で、その前に山があるからそう見える。

 その炎は湖の上から空へずっと続いているように思えた。先はあるけれど唸りを上げる熱の上昇と光の散乱が炎の先端を隠している。

「燃えているのですから」

 深緑の車が先に停まり少女は僕に向けて言った。

 原付を道の駅に停めてその炎を見ている。暑い。他に車はなく、施設に人の気配もない。避難しているのだろう。

 だから人がいない。夜が終わらないから、人がいない。

 炎は直線的で、周囲の森をまだ焼いていない。生きたように、道のように炎が上がる。まだ明けない。深緑の車から降りた少女はサングラスを外し「油なし」と僕を呼ぶ。

 油なし、なんて呼ばれることはない。誰もが身体から油を取り除くなんて出来ないから、そんな言葉自体が必要なかった。

 ただ僕は体の中にもう油を感じない。感じる必要がなかったから。きっと取り除かれたのだ。そうすればすぐに死んでしまうと言われていたものの、まだ生きている。

「不遇だから、破壊したい」

 その目は焼かれていた。

 目を焼く儀式はかなり昔の話でもう終わっていたから、いないと思っていた。

 そうだ。いるはずがない。目の前の少女を破壊しなければならない。僕が望んでいたのが炎による滅焼めっしょうで、その始まりの湖に行こうと思っていた。

「破壊するよ」

 行かなければならない。目の前の女が少女かどうかはあまり関係ない。死なないように生きなければならない。行かなければ、湖へ繋がる道は燃えている。煙草を咥える。インディアンの絵が描かれた中身の詰まった煙草。火は勝手に点く。

「行けばいいのに、動かない。ね、早く」

 車に乗るように示される。ここから先は原付で燃えずに進めない。それを感じているしそうすべきだ。歩く。ねばつく地面。深緑色の車はしっかりと地面を支える。

 車に乗ればシートも天井も白で統一されている。汚れもゴミもない。人が使っていないような車内は何もない。

「走らせてよ」

 左ハンドルだった。助手席と思って乗り込んだ先にハンドルがある。少女は隣に乗り、その灼けた目は黄色く輝く。灼けろ、燃えろ、この車ごと炎で消えてしまえ。慣れないハンドルを握って車を恐る恐る発進させる。

 油は抜けていたから、力が入らない。僕は燃え盛る湖へ車を走らせる。他に動いているものといえば炎だけだ。人の姿も動物の姿もない。速度を上げる。夜なのに明るいから照らされる。


 ここには誰もいないですよ。熱しかない。


 車は規範から外れた速度で真っ直ぐ進む。緩いカーブもそれほど速度を落とさずに運転できた。僕はほとんど車を運転したことが無い。車内はエアコンがついているから涼しく、外の炎が馬鹿馬鹿しく感じる。

「燃えないために、油を抜けば私が見える」

 冷やせば油は鈍くなる。隣の少女は目を押さえている。黄色に輝く目から涙があふれている。油を抜かなければ彼女を認知出来ないのであれば、僕は間違っていなかった。あの液体も原住民も油から離れている。自我無き礼拝もなく、自我のクロマトグラフィーによって体内の油は消える。炎は別の場所へ移される。

 それによって彼らが見つけたかったのは少女だろうか、しかしそれらは自我無き礼拝の元であり、僕ら自身であるから、元は違うものだったのかもしれない。

 現に隣にいる少女はじっと先の湖を見ている。白いパンツに薄黄色の緩やかな上物を羽織っていた。どこにでもいる普通の人にしか見えない。唯一違っているのは焼かれた目だけで、何も特別なところはない。


 湖が見えてくる。大きな炎だ。そう呟けば隣からため息が聞こえる。


「はっは、油が満ちた。どうするのか、教えてよ」

 僕はどうもしない。どうにもできない。ただ、破壊しなければならない。この体の油を抜いて少女をかき消すより他ない。あの湖の炎を消し去るべきだから、その目的のために隣に女がいる。

 燃やし尽くすのさ。目だけでなく、全部さ。


 湖が見えてくる。異常な高さまで燃え上がる炎は巨大な光の柱のように見える。


 僕は湖の目の前に車を停めた。地を震わせる轟音と圧倒的なまでに全てを滅しようとする炎の柱が目の前にある。

 周囲は既に焼けげた大地しかなく、歩いて近づくことすら難しそうだ。

「降りなさいよ、油なしでしょう」

 自我などない。礼拝などない。女の目は焼かれている。大人なってしまえば目はただ黄色く輝くだけで、それらが持っていた意義はなくなってしまう。

 だから、僕は降りなければならない。

 だから、少女でやり直さなければならない。

 けれどここにいるのは中途半端な大人の僕とこの儀式の成れの果て。少女としての外見と自我のようなものを持ったいきもの。


 僕は焼かなければならない。


 Terquy Ryeith toi poie dumd cwo


 自らの目を、自らの意思を。


 DUMD CWO MUMD CWO


 叫んでいる。車内は静かで、自我の模倣もほうされた少女はただ湖を見る。降りなさいと言えばそれで十分とばかりに助手席で固まる。硬直こうちょくする。灼けた目が光るのは、そこから液体が流出するのは、それらが自我ではないから。

 車の何かの部品が焼ける臭いがきつい、車内に煙が充満し始めるから僕は外に出なければ死んでしまう。隣の女は分からない。少女なら灼けるだけ、女なら焼け焦げるだけ。消え去る方を選んではいけないよ。

 あの液体を飲んだ時から、僕には何か確信めいた意志が内奥ないおうにくすぶっている。それが何かを説明することは出来ないけれど、僕は選ばなければならない。

 車の外へ出て、隣の少女を連れ出さなければならない。それらはこれまで培ってきた文化や様々な歴史によるものだ。動物的で僕らの中に入り込んださざ波のようなものだ。

 僕は、湖の目の前に車を停めている。


 巨大な炎は既に車をも焼き始めた。外に出れば僕らも燃え尽きる。


 けれど、けれども、外へ出なければならない。自我無き礼拝など必要なかった。油など必要なかった。押し付けられたものによって自我は既にない。思い込んでいるだけで、役割を全うしているだけなんだと思う。


 僕も、隣の少女の記号も。

 生きながらに焼かれている。

 車から出れば耐え難い熱が僕を襲い、呼吸すらままならない。体内も焼けていく。

 助手席から出て来た少女は涼しい顔をして、熱なんか関係が無いように立つ。僕は生きているのもやっとな状態で何も言えず湖面から勢いよく立ち上る炎を肌で感じる。

 熱に耐えるために下を向いて、隣の少女の靴を目印に一緒に進むしかない。

「湖に投げ込むべき、早くしてね」

 焼け焦げてしまうから、僕はその中で焦げて消えてしまう。湖から轟音がする。燃え上がっているのにその内部へと響くようにいざなう。

 だから歩けた。頭蓋が熱で響く。脳は沸騰し、僕の頭から自我が失われる。


 打ち込め、


「器がないから油が溢れた」

 儀式のせいだ。自我無き礼拝は器から油を溢す行いで全てが終わる。それらは炎上するほどに熱せられる。

 それを骨の上に溢すのだ。少女の骨だと称された骨に。

 湖の境目が見えてくる。そこから橙の炎が上がっている。熱が続いていても体はもう分からない。少女はそこにいる。


「飛び込んでくださいね、一緒に」


 油なしなのだから。僕はポケットから煙草を出した。出したすぐそばで燃えてしまうので、地面に落としてしまう。焼けていてももう感覚がない。

 来てくださいね。手を繋いでいるような気がするけれど、炎のふもとでは頭を下げるしかない。僕は膝をつく。息をすることも出来ず苦しんで死んでいく。体を縮めて、焼け死んだ人は等しい形になっている。

 僕はそうなっていない。静かになっていく。もう飛び込めない。腕を引かれている感覚がかすかにある。燃え盛る炎は天を突く。油をこぼ儀礼ぎれいは既に果たされている。それらが世界に満ちてしまったから、僕はここで俯いている。

「来てくださいね、動けますよ」

 目を閉じて、開ければ少し進んでいる。

 目を閉じ、目を開き、そうして湖畔こはんが近づいて来る。寝ているのですか、それとも油なしではないのですか。

 そう問われても僕は何も反応できない。もう焼け焦げているから、感覚はない。体内から排出された油がもうどこにも残っていないからそうなるより他ない。

 油があれば湖の中でただ燃え上がるだけ。だから体の中には油が無い状態でなければ意味がない。けれどもその状態では炎の中を歩くことなど出来ない。だから少女がいなければならない。一度焼かれたのだから、もう焼けることはない。


 油を器に戻さなければならない。だからそこにいる。


 目を閉じ、開く。


 炎の中だ。


 目を閉じ、開く。


 炎と湖の間にある虚空。


 目を閉じ、開く。


 湖の内部は油で塞がれている。


 目を閉じ、開く。


 器がないから。


 目を閉じ、開く。


 そうして少女が炎の中へ落ちていく。

「焼かれなければ器にならない」

 落ちていくのは僕の方だ。どちらも落ちているのだ。

 見ない間に沈んでいく。体の中に油が入り込んでもそれは僕のものじゃない。少女の手の感覚が戻ってくるけれどそれは僕のものじゃない。

「水と油は混ざらないから、沈まなくては」

 器だから少女は沈んでいる。僕は水だから沈んでいる。ぐるりぐるりと湖の内奥で回っている。


 目を閉じ、開く。それだけを続けていた。僕の目は焼かれていない。器じゃない。

 誰かと一緒であるわけがない。僕はこの湖の水として深く沈む。

 湖も炎も焼かれた瞳の少女も沈まない。容れ物とその中身だから。

 僕は、その器と液体の中に入っていてもこの中にいない。


 生きながらに焼かれていた。


「器があれば、こぼれる量は少しだけ」

 湖の深い所にいたように思えた僕は浅瀬で水を飲んでいただけだった。炎上していた湖から油はほとんど消え、中央に小さな火が見えるだけになっている。

 もちろん、少女はまだそこにいる。理由は分からない。そもそもそれが何か僕は分かっていない。

「早く、連れて行ってよ」

 僕の体が動く、感覚がある。あれは白昼夢。今は太陽が出ている、昼間だから。

 けれども車がある。車は深緑色をした左ハンドル。エンジンは掛かったままになっている。

――帰ろう、この車はどこにあったの。

「知らない」

 どこかへ連れて行くわけにもいかないけれど、僕は車に乗り込まないといけない。

 原付を途中で回収しないと。

 炎も油も器に収まり、目の焼かれた少女はそこにいる。僕の体は焼け焦げていない。体内も、外側も、焼けた様子すらない。

 車に乗れば寒いくらいの冷房が効いていて、すぐに止められた。

「煙草を吸わないで」

 知るもんか。けれどもう煙草を持っていない。

 もう儀式は消えたんだろうか。周囲から炎や油の感じがしない。

 周囲は燃えてなんかいなくて、他の人の姿もある。あれが本当の景色だったとして、それらが何故器からこぼす形になったのか、あの儀礼がどこで生まれたのか。

「焼かれて油を溜める人生が楽しいって?」

 楽しくないと思う。


 どこかで海が燃え、湖の炎が上がる原因になったのは間違いなさそうだ。



~~終~~

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