第6話 バレンタインなので
「や……やめないで」
緊張もあらわに強張ったその声をまだ覚えている。
イチャイチャ――という言葉が、いったいどこまでを意味するのか、俺にはよく分からねぇけど。友達としての一線を越え、恋人になって……単なるじゃれ合い以上のこともするようになって、香月の疵一つない柔らかなその肌を前にしても怖気付くこともなくなってきた頃。香月の表情も、声も、身体も、全部知り尽くした気になっていた。
そんなときだった。
越えないようにしていた最後の一線を前に、いつも通りに身を引こうとしたら、ぐっと腕を掴まれた。
「大丈夫……だから」
力強く俺の腕を掴み、香月はか細くも覚悟の滲んだ声でそう続けた。ベッドの上で髪も服も乱したまま、不安げに――でも、縋るような眼差しで俺を見上げて……。
そんなふうに言われて、引けるはずもなかった。
そこからは、夢中……というよりも、無心だった。
緊張と焦りがどっと押し寄せてきて、体中の血が沸き立つように熱くなって。すっかり冷静さを失って、自分が何を考えているんだかもよく分からなくなった。ただ、どこからともなくこみ上げてくる高揚感に突き動かされるように、体が動いていた。そうして、最後の一線を越えようとして――その先に進もうとして……そのとき、気づいた。
まだ昼過ぎだったけど、カーテンを閉めた部屋は薄暗く、布団を被って覆いかぶさるようにして見下ろした香月の表情は――眼鏡を外していることもあって――うすぼんやりとしか見えなかった。それでも……その顔が苦痛に歪んでいるのが、はっきりと分かった。
それは今まで見たこともない表情で。がつんと思いっきり頭を殴られたくらいの衝撃があった。さあっと一瞬にして血の気が引いて、体が凍りついたように動かなくなった。
そのあと、何を言ったか……よく覚えてない。冷静に考える余裕もなくて、動揺のままにパッと思いついたことを咄嗟に口にしていた。たぶん、また今度にしよう、て……そういうようなことを言った気がする。そしたら、香月はしばらくぽかんとして――ふわりと笑った。今度は見慣れた香月の笑顔で。ホッとしたんだ。思いとどまって良かった、と心底思った。
それから、半年くらい経ったけど……相変わらず、その先へは踏み込めずにいる。いつも、その手前で
でも、小鶴さんの冗談を真に受けて妄想するほどには興味はあるのは明らかで。『初めて』を受け取ってほしい……なんて香月に言われたら、やっぱ、期待はしてしまう。
だから――。
「寒かったね」と部屋に入るなり、おもむろにコートを脱ぐ香月。トグルボタンを一つずつ外し、はらりとコートを脱ぎ捨てる――そんな、なんでもないはずの仕草にも、つい、目が奪われて、胸がざわめく。
アホか、と我ながら思う。でも、仕方ないだろ。あんなこと言われて、部屋まで来たら……意識しないほうが無理だ。
しかも……だ。コートを脱ぐや、蛍光灯の明かりに照らし出されたのは、真っ白なセーラー服で。眩いほどのその色に目眩すら覚えた。胸元の水色のリボンも清々しく爽やかで、晴れやかな青空を思わせ、紺のスカートは間違いなく校則違反の短さ(おそらく、膝上二十センチなんだろう)。全くもって冬らしくない。露わになった太ももが実に寒そうだ。それなのに。見ているだけで、俺だけ真夏に居るみたいに体がじわじわと熱くなってくる。
マジで……心底アホだと思うけど。もはや、バカだと思うけど。好きな子が好きなもの着てたら、やっぱ、嬉しいというか、それだけで興奮するというか――。
「どうかした?」折りたたんだコートを床に置き、香月はこちらをちらりと見て、微笑を浮かべた。「そんなにじっと見つめられると、さすがに照れるな」
「え!? いや、それは……」
ぎくりとして、俺は咄嗟に目を逸らしていた。
見てねぇ――とは、もうごまかせないほどには、しっかり見ていた自覚はあって。とはいえ、セーラー服姿に見惚れていた、なんて言えるわけもない。
「なんでもない」と吐き捨てるように言って、身を翻して俺もコートを脱ぐ。部屋の奥へと進んで、ハンガーラックにそれをかけていると、
「なんか……いつもよりスッキリしてる感じがする」とぼんやりと呟く声が背後からした。「部屋、片付けた?」
「か……片付けてねぇよ!?」
ばっと振り返って、思わずムキになって大嘘吐いていた。
片付けたけど。小鶴さんの言葉を真に受けて、もしかして……なんて期待して、整理しちゃったけど。さすがに……それを知られるのは、恥ずかしすぎる。
もともと、そこまで散らかってた部屋でもない。何年か前に断捨離にハマった母親の影響で(というか巻き込まれただけだが)物は少なく、なんともつまらない簡素な部屋だ。散らかすほうが難しいだろう。片付けたといっても、充電器やらイヤホンやら、細かい物を引き出しにしまったくらい。間違い探しレベルだ。それなのに、なんで気づく!?
胸の奥がぞわぞわとして落ち着かない。なんで片付けたの? なんて聞かれるんじゃないか、と思って気が気じゃなかった。
そんな俺の心情など、当然、知る由もなく……香月はなおも訝しそうに部屋の中をじろじろと観察してから、
「でも、ベッドもいつも以上にピシッとしてない? ホテルみたい」
「ほ……!? な……何言ってんだ!? 普通だろ!」
「なんでそんなに必死なの。褒めてるんだけどな」
はは、と苦笑してから、香月はじっと俺を見つめてきて、
「なんだか、様子が変だね」
げ……!?
「そ……そんなことねぇよ」
そっぽを向き、平静を装う……が、顔はじわじわ熱くなるし、口許はムズムズしてくるし。いったい、どんな有様になっているんだか。もはや、知りたくもない。
「そんなことあるよ」
クスクス笑って、香月が近づいてくる気配がして、背筋がぞくりとした。
「もしかして、結構期待してくれてたりするのかな」なんて思わせぶりに言うその声に、ごくりと生唾を飲み込み、そろりと視線を戻すと、
「今日が何の日かは、陸太もきっと分かってるもんね。もう、もったいぶるようなことでもないか」
俺の前で佇み、香月は照れたように微笑んだ。「時間もないし」と少し残念そうに呟き、持っていたスクールバッグに手を入れ、ごそごそと中から何かを取り出し、「はい」とそれを俺に差し出してきた。
小さな袋――だった。といっても、コンビニのレジ袋とか……そういう殺伐としたものではなく。白いリボンがついた、実に女の子らしいピンクのラッピング袋だった。
「へ……」
つい、すっとぼけた声が漏れていた。
きょとんとしていると、香月は俺の顔を覗き込んできて、
「今日、バレンタイン……なので」と遠慮がちに言った。「女の子が好きな人に、お菓子をあげる日。――だから、お菓子です」
※更新が遅くなりまして、ホワイトデーまで過ぎてしまいました。本来、三話ほどで終わらすはずだったのですが、気づけば長くなってしまいまして。開き直って、このまま書き続けていきます。心はバレンタイン気分でもうしばらく、のんびりとお付き合いいただければ幸いです!
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