第3話 二人の関係

「別に香月が礼を言うことじゃ無いだろ」


 呆れたように返す護の声。口を歪めて苦笑する表情がありありと脳裏に浮かんだ。

 な……なんだ? なんの礼なんだ? なんの話を……と、そのときだった。


「そうですよー」と無邪気に弾む声がして、「お礼を言わなきゃいけないのは、私です。今日はありがとうございました。日比谷先輩に香月先輩」

「いやいや! 礼を言うべきは俺だ! ホワイトデーには、護と香月にもお返しをやらないとな」

「俺には渡すなよ、カブ。頼むから」

「遠慮すんなよ、護」とガハハと豪快に笑う声が辺りに響き渡る。「教室でこっそり渡すから大丈夫だ!」

「何が大丈夫なんだ? やめてくれ。てか、声でかいぞ。近所迷惑だ」

「ああ、そっか。――あ、そういえば、今から陸太も練習見に来んのか、香月?」

「んー。多分。でも、明日、平日だからすぐ帰るんじゃないかな」


 あれ……と、俺は誰もいない薄暗い虚空を見つめて、ぽかんとしていた。

 あと二人いる? しかも、この声は……絢瀬とカブちゃん? もしかして、香月たちの後ろにいたのか? 角から出てきた二人を見てすぐ隠れたから、見えなかっただけで……。つまり、四人で会ってただけ? 香月が言ってた『用事』って、四人で何かすることだったのか?

 なんだ、とホッとして――そして、さあっと血の気が引いた。安堵した途端、罪悪感がどっと押し寄せてくるようだった。

 な……なにやってんだ、俺は!?

 まじで、なんで隠れた? たとえ、二人きりだったとしても、だ。何も隠れる必要はなかったはずだ。これじゃ、二人の仲を疑ってるみたいじゃねぇか。浮気とか……香月がするわけない。他に好きなやつが出来たんなら、まずは俺ときっちり別れて筋を通す。そういう奴だ。護だって、隠れてコソコソ何かするような奴じゃない。

 ちゃんと分かってる。頭ではちゃんと分かってたはずなのに……。

 最低だ。カレシとしても、友達としても。

 とはいえ――今さら、のこのこ出て行って、「よお」なんて言えるわけもない。いきなり、自販機の陰から現れて、何事もなかったかのように平然と声をかけられるような逞しい精神力は俺は持ち合わせてはいない。

 かといって、こっそり出て行こうにも、うちのマンションは通りを挟んだ反対側だ。マンションに入ろうとすれば、どうしても路地を横切らないといけない。いくら暗がりとはいえ、そんなことしたら、香月たちから丸見えだ。

 しかし……だ。こうして、ここにいても、マンションに向かう香月に気づかれる可能性もあるわけで。『なんで、そんなとこにいるの?』て言われたらアウトだよ。

 まずい。――詰んだ!?

 うがあ、と声にならない叫びをあげて、髪を掻き毟りたくなった。

 リサイクルボックスを背にうずくまり、頭を抱える。

 どうしよう? どうすりゃいいんだ? どうにかして、香月に気づかれないようにここから抜け出して、家に戻らねぇと……。

 しかし、逃げ場を探せば探すほど袋小路に追い詰められていくようで。焦りばかりが募って、何も思いつかない。真っ暗な足元を愕然として見つめていた、そのときだった。


「そんなところで何してるのかな、子猫ちゃん?」


 こ……子猫ちゃん!?

 ぞっと背筋に悪寒が走り、


「誰が、子猫ちゃんだ!? いい加減、そういうことを言うのはやめろって……」


 振り返るなり、そうがなり立て――ハッとした。

 視線の先にあったのは、紺のダッフルコートからちらりと覗くプリーツスカート。そこからすらりと伸びる真っ白な脚が、自販機の光に照らされて眩いほどに輝いて見えた。冬でも、相変わらずのミニスカートに生足。つい、ゾクリとして……て、そこじゃない!


「ごめん、ごめん」と、反省の色もなく、どこか楽しげに言って、そいつは俺と目線を合わせるようにそこにしゃがみ込み、「慌てて隠れる様が可愛くて。子猫みたいだったから」


 恥ずかしげも躊躇いもなく、さらりとそんなことを言って、ふっと目を細めて笑う。ほんっと……腹立たしいほどに、そういうところはいつまでたっても『王子様』で。すっかり伸びた髪は――今は、マフラーに巻き込んでいて見えないが――肩まであって、顔つきも心なしか柔らかな印象に変わり、単純な見た目だけなら『カヅキ』だった頃とは随分と違う。それでも、未だにこうして、あの頃のままの涼しげな笑みで、思いっきり心を揺さぶってくるんだ。


「か……香月……」


 頰を引きつらせ、かろうじてその名を喉の奥から絞り出した。

 いつのまにそこに……!? 皆は……もう帰ったのか? てか、なんで、俺を自販機の陰こんなところで見つけて、そんなに平然として――て、ちょっと待て!?


「『慌てて隠れる様』って……全部、見てたのか!?」

「一瞬だったけど」


 さらりと言われ、言葉を失って固まった。

 みるみるうちに顔が熱くなっていく。

 隠れるとこ見られる、とか――一番、恥ずかしいやつじゃねぇか!?

 あまりの羞恥に、目が回り、泡でも吹いて倒れるんじゃないかと思った。そんな俺に、「さて」と香月は気を取り直すように言って、しゃがんだまま両手を広げてふわりと微笑み、


「はい。おいで、おいで」

「お……!?」


 『おいで、おいで』って……!?


「い……行けるか!」

「なんで。たまには甘えてきてほしいなぁ」

「いや、甘えるって……今のはそういう問題じゃなくね!?」

「相変わらず、素直じゃないよね。陸太は」

「だから、素直とかそういう問題じゃねぇからな!? おいで、なんて言われて、どうしろって……」

「寒いから家で待ってて、てちゃんとLIMEで言っといたのにな」

「は……?」


 急に沈んだ声でぽつりと呟いたかと思えば、香月はそろりと自分の首からマフラーを取って、俺の首に巻きつけてきた。

 まだ香月のぬくもりが残るマフラーはほんわかと暖かくて、そして、甘く優しい香りがふわりと漂ってきて。たちまち、身体中が温まる感じがした。

 でも……なんでだ? なんで、急にマフラー……? まさか、寒くてこんなところに逃げ込んだ、と思ってるのか? いや、そんなわけない……よな?

 さっきの発言も、この行動も、あまりに唐突で。

 ぽかんとしていると、香月はどこか申し訳なさそうな微苦笑を浮かべ、落ち着いた声で言った。


「ずっと、外で私のこと待っててくれた……んだよね? それが私に知られるのが嫌で隠れた――違う?」

「え!?」と裏返った声が飛び出していた。「いや……それは……」


 そんなふうに思ってたのか!?

 ち……違う――けど。違うと言っても、本当のことを言うわけにも……いかない、よな。護と二人きりで会ってたのかと思って、ビビった……なんて。まるで、香月のこと信じてないみたいだ。そんなこと、香月に言えるわけがない。きっと、傷つけるだけだ。

 でも……だからといって、嘘吐くのか? それはそれで、どうなんだ?

 罪悪感と自己嫌悪に喉を押しつぶされていくようだった。何も答えられず、口ごもっていると、


「ごめんね」


 香月が切なげに言うのが聞こえて、ぞわっと全身が粟立つのを感じた。寒さのせいなんかじゃなく――。


「お前が謝ることは何も……!」


 怒号を上げる勢いで、そう言いかけたとき、


「こんな形で知りたくなかったよね」と香月は俯き、悔しげに呟いた。「カブちゃんと付き合うことになった、て……せめて、絢瀬さんの口から直接聞きたかったよね」

「ん……?」


 は……? なに? 絢瀬がカブちゃんと……なんて?

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