エピローグ

エピローグ

『陸太、おはよう!』


 窓からは燦々と朝日が注ぎ込み、清々しい光に満ちた七畳のワンルームに、そんな嬉しそうな声が響き渡った。その澄んだ声は、鼓膜にすうっと沁み渡るようで。どんなに夜更かししようと、この声を聞くだけですっきり爽快で目を覚ますことができる気がする。欲を言えば、直接聞きたいと思うけど――。


『もしかして、起こしちゃった?』


 ベッドに寝転びながら見つめるスマホの画面の中で、小首を傾げる彼女。ふわりと揺れる黒髪は肩まで伸びて、聡明そうな顔立ちは凛々しくも愛らしい。落ち着いた表情はなんとも奥ゆかしく、じっとこちらを見つめる眼差しは涼しげながらも鋭い知性を感じさせる。


 高二のときから付き合っている、俺のカノジョだ。


 彼女との出会いは、二年前。高二になってすぐに、悪友に誘われて行った合コンだった。まあ、紆余曲折というか。いろいろあって……友達との一線を越え、晴れて恋人同士になったわけだが。高校卒業後、彼女は地元の女子大に進み、俺は地元から新幹線で約二時間、車で約五時間の距離にある他県の大学に進んで――いわゆる、遠距離恋愛というものを始めて、もう四ヶ月になる。


『日曜日だもんね。ごめんね、急に電話して』

「いや、いいよ」と言いながら、のっそり起き上がる。「どうかした?」

『んーん。陸太の顔、見たくなっただけ』


 そう言って、彼女はふわりとはにかむように笑う。――その笑みは、柔らかく無防備で。まるで付き合い始めた頃のまま、ずっと変わらない気がして……懐かしさと愛おしさが一緒くたになってこみ上げてくるようだった。


『今日はどこ行くの?』

「今日は、サークルだから……もう少ししたら、大学に行くよ」


 ベッドの上にあぐらをかきながらそう答えると、小さな平面の中で彼女は『日曜日に?』と目を瞬かせる。


『珍しいね。いつも水曜じゃなかった?』

「今週は水曜に別のサークルが体育館を使うらしくて」

『そっか……』とぼんやり相槌打ってから、彼女はふっと目を細めた。『陸太のプレー、早く見たいな』


 きゅっと鳩尾の奥を抓られたような淡い痛みが走った。

 こみあげるものがあって。胸がぐっと詰まるような感覚がして。じんわりと顔が熱くなっていく。


「じゃあ、早く来いよな」ニヤけそうな顔をごまかすようにムッとさせ、ぼそっと言う。「今すぐにでも会いたいんだけど」


 すると、彼女は『うん』と悪戯っぽく笑って頷いた。


『私も。だからね――』


   *   *   *


「笠原!」


 ちょうど、体育館の玄関に足を踏み入れたとき、後ろから声をかけられた。

 振り返れば、「お疲れ」と微笑みながら駆け寄ってくる長身の男がいた。長めの髪はくねくねとウェーブがかって、日によく焼けた肌は浅黒く、ニッと笑うと白く綺麗に並んだ歯がよく目立つ――そんな爽やか好青年だ。肩には、今から旅行でも行くのか、というほどの大きなバッグを提げている。俺と同じように……。


「星野、お疲れ」


 いたって普通にそう挨拶を返した……つもりだったのだが。星野は俺の目の前まで来て立ち止まると、「お」と何かに気づいたように眉を上げ、


「何か良いことあったのか?」

「なんで分かるんだ!?」

「笠原は顔によく出るからな」


 真夏の太陽さえ羨むような……カラッと晴れやかな笑みを浮かべ、星野はさらりと言った。まるで、何でもないかのように。分かりきったことだろう、とでも言いたげに。

 確かに。前々から『顔に出過ぎ』とは周りに言われてきたもんな。特に恋愛がらみになると、俺はバレバレらしく……初恋のときなんか、周りの友達はおろか、本人にさえ気づかれていたようで。それを、その本人の口から五年後に聞かされたときの衝撃たるや……筆舌に尽くしがたいものがある。


「そんなに顔に出てたのか……」


 頭を抱えてひとりごちると、ハハッと星野の爽やかな笑い声が辺りに響き渡った。


「もうデレデレ。ニヤケすぎだよ」

「まじか……」


 諦めたようなため息が漏れた。

 ここまで来ると、ごまかすのもアホらしいな。


「実はな」と観念して口を開くや、たちまち、自分の顔がニヤケていくのが今度ははっきりと分かった。「今朝、カノジョから電話があって……遊びに来るらしいんだ。来週、夏休み入ったらすぐに」

「おお! 例の……地元のカノジョ!? 良かったな〜。そりゃ、嬉しいわな。確か、GWに会いに帰ってたよな? それ以来か?」

「ああ。もう三ヶ月ぶりだよ」


 しかも――と心の中で付け足す。

 『泊まってもいいかな?』て、遠慮がちに言った彼女の声が、今も耳に残っている気がする。

 我ながらアホだとは思うけど……やっぱり、カノジョの口から初めて聞く『泊まる』という言葉はなんとも甘美な響きを持って、朝っぱらから、たまらなく心がくすぐられてしまった。

 実家暮らしのときは、お互いの部屋で恋人らしいこともしてはいたけど、一晩共に過ごしたことは当然無く。付き合ってもう二年なのに、彼女と一緒に寝ることを想像しただけで、今からそわそわしてきて、いろんな期待が膨らんでしまって……今夜から眠れなさそうだった。


「もし、予定が合ったら、カノジョさん、サークルにも連れて来いよ」


 靴を履き替え、玄関からアリーナへと繋がる扉へと向かいながら、星野は嬉々としてそう切り出した。


「俺も会いたいしさ。あ、ちゃんと紹介してくれよ?」

「そのつもりだし……カノジョも星野に会えるの楽しみにしてるよ」

「え? 俺のこと知ってんの?」

「サークルの話はよくするからな。中学からやってて、すごいうまい人がいる、て話してる」

「いやいや……ハードル上げすぎ」と照れたように笑ってから、星野はハッと思い出したように俺に顔を向けた。「そっか……そういえば、カノジョさんもホッケーやってるんだったな」

「ああ、そう……なんだけど――」


 答えながら、俺はアリーナへの扉を開けた。ガラッと扉がスライドする音に続いて、小石同士がぶつかるような乾いた音と、ゴロゴロと車輪が転がる音が溢れ出てくる。――もう聞き慣れたホッケーの音だ。

 まだサークルが始まる時間ではないのだが。広々としたアリーナの中では、男女六人がインラインスケートを履いて、スティックを手に縦横無尽に滑っていた。頭にはヘルメットを被り、膝と肘、そして脛にプロテクター。スティックを握る手にはグローブをはめ、パックを追いかけている。一方、体育館の端では――俺らと同じく来たばかりなのだろう――のんびり談笑しながら、防具を装着している人たちの姿もある。全部で、十五人ほどの――インラインホッケーサークルのメンバーだ。


「カノジョはアイスホッケーのほうな」


 星野に視線を戻して、俺はやんわり言った。


 入学式直後、押し付けられるように渡された大量のサークルのビラの中から、インラインホッケーの文字を見つけ、俺は息を呑んだ。青天の霹靂……というと大げさかもしれないが。その手があったか――と感動すら覚えた。

 インラインホッケーは、氷の上でなく、路面でやるホッケーだ。

 アイスホッケーとは違い、ぶつかり合いは禁じられているから、アイスホッケーほどがっちりと防具で身を固める必要もなく、練習中は、ヘルメットにグローブ、肘当てに膝当てや脛当て……と、そんなもんで。俺のアパートはキャンパスから徒歩十分も無いし、ウィールバッグに入れてガラガラ引きずって行けば、車なしでも余裕で運べる。これなら、俺もホッケーができる、と初めて見学に行ったときに思った。

 アイスホッケーではないけど、それでも……ホッケーを始めることを伝えたら、カノジョは『そっか』とホッとしたように言って、スマホの画面の向こうで微笑んだ。はっきりと見えたわけじゃないけど、なんとなく……涙ぐんでいるのが分かって。

 そのときだ。

 遠距離恋愛になって初めて、抱きしめられないことをたまらなく悔しく思った――。


「アイスホッケーか……」


 相当意外だったようで……星野はしばらく唖然として固まってから、ふいに、顔を顰めた。


「俺、そっちのホッケーはやったことないんだけど……結構、激しいんだよな? 氷上の格闘技……だっけ。カノジョさん、実はワイルドな感じ?」

「ワイルド……?」


 突然訊かれて、俺はきょとんとしてしまった。

 どうなんだろう――?

 ワイルドと言えば、ワイルドか? 何年も男のフリしてた奴だし、こっちが驚くような大胆なこともしてくるし。ホッケーのプレーも荒くて、昔も今も護に小言を言われてるみたいだし。

 でも……結構、繊細なところもあるんだよな。

 俺の些細な変化にも敏感で、ちょっとでも俺の様子が変だと『大丈夫?』て駆けつけてくれて――そんな、まるで『王子様』みたいな奴で。頼もしくて格好良くて、昔はその背中に憧れもしたけど……ちょっとしたことで泣き出したり、怒ったり、子供みたいにいじけたりもする。そのギャップに最初は慣れなくて、戸惑うこともあった。でも今は、そういうところを可愛いと感じるんだ。


「ワイルド……というより、格好いい――かな」


 しばらく考え込んでから、俺はぽつりと呟いた。


「格好いい? じゃあ、クールな感じか」

「いや……クールはちょっと冷たすぎる。もっと可愛い感じ」

「可愛い? さっき、格好いい、て言わなかったか?」

「だから、格好良くて可愛いんだ。あと、優しくて、明るくて、清楚で、運動神経が良くて、映画の趣味が危なくて、しっかりしてるけど放っとけない感じもあって、包容力が抜群……」

「多い、多い!」と星野は白い歯見せて楽しげに笑いながら、俺の言葉を遮った。

「一体、それ、どういう人だよ? 全然分からん。一言で頼むわ」


 彼女を一言で――。

 その瞬間、考えるよりも先に、ふっと頭に浮かんだ言葉があった。


 それはもう随分と懐かしく思えるようなフレーズで。それでいて、ものすごくしっくりきてしまって。

 つい、恥ずかしくなって苦笑しながら、俺は星野に答えた。


「『理想のカノジョ』だよ」




※※あとがき※※


 完結まで見届けていただき、本当にありがとうございました。

 お読みくださった皆さまからいただいた、応援♡、レビュー☆、そして、暖かなコメントや、身に余るレビューコメントに励まされて、こうして完結することができました。

 この場を借りて、心から御礼申し上げます。

 今回の作品ほどお読みくださっている方の反応をいただいたことがなく、こうして、毎話二十近くの応援をいただき、そして、直接、いろんなご感想をお聞きできたこと、私にとって大変、貴重で贅沢な経験となりました。

 こんなにお読みくださっている方がいらっしゃるのだな……と実感できて、これまで何年も細々とWeb小説を描いてきましたが、続けてきて良かった、と心から思います。

 お家にいる時間が長くなったこの時期、ほんの少しでも拙作が日々の楽しみに貢献することができていれば、と願うばかりです。


 『君が触れてくれるなら』の本編はここで完結ですが、次話から香月視点の番外編を描こうかと思っています。その間に新作(また、幼馴染もののラブコメになる予定です)を描いて投稿していこうと思っていますので、もしよろしければ、番外編、または、新作のほうも引き続き、お読みいただければ嬉しいです。


 最後になりましたが……もし、ちょっとでも「読んで良かったな」と思われた方がいらっしゃいましたら、コメントやレビュー☆等を残していただければ大変励まされます。


 重ね重ね、ここまで応援いただき、ありがとうございました。

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