番外編

嫌がらせ

※※前書き※※


 陸太と香月のお部屋デート三回目(最終章が二回目です)となっています。二人がイチャついているだけです。話の内容に深い意味はありません。イチャついているだけです。『そういうのは求めてないな〜』という方や、番外編は苦手だな、という方は、この話を飛ばしていただいてもエピローグにはなんの影響もありませんので、読み飛ばしていただいて大丈夫です。

 生暖かーい目で、よろしくお願いいたします。


※※※※※


 暗がりの中、真っ白なシャツのボタンを一つずつ外していく。はらりとはだけた襟元からほっそりとした鎖骨が覗き、さらに一つ、また一つ……とボタンを外すごとに、滑らかな肌があらわになっていく。やがて、胸元まで来ると、ふっくらとした膨らみが顔を出す。黒のレース生地のブラジャーからあふれ出んばかりのその膨らみに、少しだけ躊躇うように手を止め……逡巡するような間があってから、さらにその下へとボタンを外していくと――、


『欲深いやつめぇ!』


 腹部に、突如として、五十代くらいのおっさんの顔が浮き出てきて、大口開けて噛みついてきた。


「うわああ!?」


 もう防衛本能といっていいだろう。俺は悲鳴をあげて、勢いよくテーブルの上のパソコンを閉め、


「どんなトラウマ、植え付ける気だ!?」


 ふわりとした袖の黒のカットソーに、淡い桃色のロングスカート姿――という、いつも以上に女の子らしい格好をして、隣でベッドにもたれて座っているそいつに怒鳴りつけた。


「なんつーもん見せるんだよ!?」

「『人面腹/欲を食い尽くす女』だよ」


 ふっと唇の片端を上げ、きりっと凛々しく浮かべるその笑みは、自信と気品に満ち溢れ、まさに白馬に乗った王子様。今から、お姫様でも助けに行きそうなもんなのに。

 とてもじゃないが、彼氏の部屋に来るなり、カーテンを閉め、『さあ、おっぱじめようか』などと言って、他人ひとのパソコンでB級ホラー映画(R15)を意気揚々と再生し始めるような奴には見えない。

 せっかくの夏休み。平日の昼過ぎで親もいないという、この貴重なチャンスに。なんで……なんで、よりにもよってこんな映画を見せてくる!?


「タイトルは聞いてねぇよ!」と泣きたいくらいの思いで、腹の底から訴えていた。「なんで、この映画を選んだんだ!?」

「なんでって……」


 まるで、俺が取り乱しているのが理解できないかのように、不思議そうに香月は目を瞬かせ、


「この映画を見たら、どんな男もになる、て聞いて……」

「なっ……」


 言葉に詰まり、たちまち、かあっと顔が熱くなるのを感じた。

 その気って……やっぱ、香月もそういうつもりで――て、いや……とりあえず、それは置いといて。


「ならねぇよ!」と俺ははっきりと言い切った。「逆に、どんな男も萎えるからな!?」

「そうなの!? でも、すごいエロいよ!?」

「グロが上回ってるだろ! 恋人の腹におっさんの顔があって、襲いかかってくるんだぞ!?」


 そこで香月はハッとして、青ざめた顔で自分のお腹を押さえた。


「そっか……陸太にそんなふうに思われたくない」

「いや、思わねぇよ!?」


 てか……想像もしたくない。香月のお腹におっさんって……。

 うーん、と俺は唸りながら眉間を揉み、


「てか、この映画で男がその気になる、なんて誰から聞いたんだよ?」

「それは――」と答えようとして、香月ははたりと言葉を切った。そして、しまった、とでも言わんばかりの深刻な表情で俯き、ぼそっと言う。


「樹兄ちゃん……」


 その瞬間、がしっと心臓を掴まれたようだった。

 あ――と、全てを悟り、俺は愕然として香月を見つめた。

 俺も香月も言葉を失くし、気まずい空気が漂う中、


「だ……騙された……」香月はがくりと項垂れ、悔しげに呟いた。「てっきり……気が変わって、私たちのこと応援してくれてるのかと……」


 つい、頰が引きつる。――香月は全部は知らないんだもんな。樹さんの俺への不信感がどれだけ根深いかを知らない。だから、樹さんの気がそう簡単に変わるわけがないことも分かってないんだ。

 典子さんの申し出に甘えて、さっそく、今日、ハーデスの練習前に香月との二人きりの時間を作ってもらった。今、樹さんはこの近くで典子さんとデート中……のはず。あとで、須加寺アイスアリーナで合流して、香月は樹さんから防具を受け取ることになっている。

 だから、これは……樹さんからのささやかな――だったんだろうな。

 樹さんは俺をまだ『クソ野郎』だと思ってるわけで。そんな俺の部屋に香月を行かせるのは気に食わない……というより、心配で。俺がその気にならないように――香月に手を出さないように――かつてないほどにひどいエログロホラー映画を香月に薦めたんだろう。


「ごめん、陸太」


 すっかり気落ちした様子でしょぼんとしながら、香月は俺のすぐ横に来てパソコンを開いた。そこには、返り血に染まって悦ぶおっさんの顔が画面いっぱいに表示されていて、思わず、俺はぎょっとしてしまうが……香月は全く動じる様子もなく、ウインドウを消し、櫻兄妹御用達のVODサイトを閉じた。

 その横顔をまじまじと眺めて、すごいな、と素直に感心してしまう。この凄まじいホラー耐性も、つい最近知ったことなのだが……今まで、『カヅキ』とお化け屋敷に行かなくてよかった、と心底思った。今後も、絶対に行くまい。ひぎゃあ、と叫んで香月にしがみつく自分がありありと想像つく……。


「大丈夫?」


 ぱたんとパソコンを閉じると、香月は遠慮がちに訊いてきた。俺はハッと我に返って、「ああ」と気を取り直すように笑って答える。


「確かに、インパクトはあったけど……びっくりしただけだから。気にすんな――」


 言いかけた俺に、香月はちらりと切なげな眼差しを向けてきて、


「もう……無理?」


 カーテンを閉め切って暗くなった部屋に、そんな頼りなく掠れた声が響いた。

 ――声を失くした。

 もう無理? って……そりゃ、だわ。そんな寂しそうに訊かれて、我慢できるわけがない。

 一気に体の中に熱がこもっていくようで。今にも爆発しそうな昂りを腹の底に感じて。


「んなわけねぇだろ」


 静かに言って、俺は香月にキスして、そのまま、その場に押し倒した。

 先週、俺は香月と初めて『イチャイチャ』というものをした。まだ日も暮れる前、燦々と日差しが注ぎ込む明るい部屋の中、俺たちは互いの好奇心を曝け出すように夢中で触れ合った。まるで、子供の度胸試しみたいに、躊躇いながらも何かを探し求めるように。肌に手を這わせ、指を滑らせ、そして、何度も唇を重ねて……。

 だから、キスもこれで何度目か――なんてもう分からないけど。なんとなく、どんなキスをしたら、香月がどう応えてくれるのかが分かってきていて……そういうが嬉しくもあり、もっと違う反応も知りたい、なんて欲求もこみ上げてくる。

 床に仰向けになった香月に覆いかぶさるようにして、そうしてキスを続けながら、香月のカットソーに手を伸ばす。スカートの中からその裾を引っ張り出すと、するりとその隙間へ手を滑らせ、中へと侵入した。

 滑らかな肌の感触を指先で感じ、引き締まった腹筋の気配を手のひらで感じ取った。

 くすぐったいのか、「ん……」と香月がくぐもった声を漏らして体を捩り、背筋にぞくりと悪寒のようなものが走った――その瞬間、


『欲深いやつめぇ!』


 頭の中でそんなしゃがれた声が響き渡り、血走った目を見開いて大口開けるおっさんの顔が、閉じた瞼に浮かび上がった。

 ぎょっとして、目を見開き、顔を上げる。

 あ……しまった――と、さあっと血の気が引いた。

 キスを止め、手もぴたりと止めた俺を、さすがに不審に思ったのだろう。香月もゆっくりと瞼を開くと、ぼうっとした眼差しで不思議そうに俺を見上げてきた。髪を乱し、頰を赤らめ、期待と不安が混じったような――そんな表情で仰向けに寝そべる様は、なんとも扇情的で唆られるものがある……はずなのに。

 それ以上に、ついさっき、潜在意識に焼きついてしまった(らしい)おっさんののインパクトが強すぎて。一気に、冷静になってしまった。

 香月を組み敷いたまま固まる俺を、最初は心配そうに見ていた香月だったが……やがて、その表情は強張っていき、


「もしかして」と口にしたときには、ムッとしたそれになっていた。「おじさんのこと考えてる?」

「え!? いや……そんなことは……」


 否定する声の、なんと情けないこと。


「私に触りながら、おじさんの顔、思い浮かべてたんだ?」

「ちょ……その言い方だと、また違った意味に――」


 あたふたとする俺を押しのけるようにして香月は体を起こすと、ぴしっと正座し、真っ向からきっと睨みつけてきた。怒ったような、いじけたような、どこか子供っぽい表情で。

 嫌な予感がする……。間違いなく、怒られる。


「陸太」

「はい……」

「私の体にもおじさんが憑いてると思ってるの?」

「いや、それは思ってねぇよ!?」

「また、私に触るの怖くなっちゃった?」

「そんなんじゃないって! 別に、香月に触るのが怖くなったとかじゃなくて……ただ、さっきの映画のインパクトが強すぎて、尾を引いているというか……つい、思い出して、我に返っちゃったというか……」


 必死に弁明するものの、説得力が足りないのか、香月は聞く耳持たず、「仕方ない……よね」とため息吐いて、悲しげに眉尻を下げた。


「私も、幽霊とか信じてないけど……怖い話聞いたあとは、後ろに何かいるんじゃないか――とか思って怖くなるし、シャワーのあと、目開けられなくなるし」

「そう……なのか」


 意外だな。

 ホラー映画をまるで芸術作品でも眺めるように観る奴だから……そういう怖さとは無縁なのかと思っていた。


「どうしようか」と香月は腕を組み、悩ましげに眉を顰めた。「どうしたら、また陸太が安心して私に触れるようになるかな」 

「って、ちょっと待て!? 大袈裟だ! だから、俺は別にお前に触るのを怖がってるとかじゃなくて……おっさんの画が――」

「やっぱり、私の体におじさんはいないって証明するしかないか」


 ふいに、香月は確信を持ったようにそう言って、冷静な眼差しでこちらを見てきた。

 香月の体におっさんがいるなんて、微塵も思っていない。証明なんてする必要もない。それなのに……覚悟さえ伺わせるようなその雰囲気に、思わず、俺は口を噤んだ。


「そういえば……この前は、全部は見せてないもんね」と緊張した面持ちで言い、香月はぎゅっと膝の上でスカートを握りしめた。「だから、今から見て……ほしい」


 見てって……。なんだ、この流れ……?

 自然と体が強張り、ごくりと生唾を飲み込んでいた。


「陸太が安心できるまで……好きなだけ、調べて」


 切なげで、それでいて、縋るような……そんな眼差しで俺を見つめ、香月は熱っぽくそう囁いた。


   * * *


「げ! 出たな、クソ野郎!」


 須加寺アイスアリーナに着き、二階の観覧席へ行こうと階段を登っていたときだった。

 背後から嫌悪感丸出しの、聞き覚えのある声がした。

 ハッとして振り返ると、


「そんな挨拶しかできないんですか、樹さん。小学生ですか」


 階段の下で、侮蔑たっぷりに言って、さらりとセミロングの髪を耳にかける典子さん。その横で、「今のは挨拶じゃないから」とよく分からない言い訳をしている樹さんがいた。


「こんばんは。陸太くん」


 ふっと微笑み手を振る典子さんに、俺は慌てて「こんばんは」と頭を下げ、階段を下りる。


「今日はありがとうございました」


 向かい合うなりそう言うと、典子さんは「楽しめた?」と相変わらず、感情が伺えない平坦なトーンで訊いてきた。

 はい――と答えようとしたのだが、


「ああ、そうだった」と樹さんは皮肉な微笑を浮かべて俺を見下ろし、「映画はどうだった? 良かっただろう?」


 ハッとして……つい、ニヤケそうになってしまった。

 そのとき、脳裏に浮かんできたのは、もうおっさんではなくて――。


「はい。すごく、良かったです」


 照れながらもそう答えると、「え、なんで!?」と樹さんの頓狂な声が辺りに木霊した。

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