第19話 君に触れられるなら

「前より遠ざかってる」


 ベッドの上でクッションを抱えて座り、香月はムッとした表情でぼそっと言った。

 確かに……と、その距離をちらりと目で測って心の中で呟く。

 ベッドの窓側――枕近くで、壁に背をもたれて座っている香月と、窓とは逆側のさらに端のほうで床に足をつけて座る俺との間には、神経衰弱でもできそうなスペースがある。

 前、ここで一緒に映画を見た時は――床で並んで座っていたが――『友達』としても不自然なほどのぎこちない距離が開いていたものだが……今よりはマシだっただろう。


「本当に私に指一本触れない気なんですか」


 なんで敬語なんですか――て言い返したいけど、怖くてできない。それに、その語調は質問しているというよりは、責めているようなそれで。別に、俺に答えを求めているわけじゃないんだろう、と思った。それどころか、どう答えようと火に油……な気がする。指一本触れない気です、て答えようが、そんなことはない、て嘘を吐こうが、立場は悪くなるだけのような……。どう転がっても、香月の機嫌が直るとは思えない。

 典子さん、ここからどう頑張れ、て言うんですか――と泣き言のように心の中で呟いていた。

 とりあえず、誠心誠意謝ろう、と俺は上半身をひねって香月のほうへ向け、


「香月――さん。ごめん」


 目が合った途端、ジロリと鋭い眼差しを向けられ、なぜか、俺もさん付けしちゃったけども。

 香月はさらに表情を険しくするだけで、ふいっとそっぽを向いてしまった。


「何に謝ってるの?」

「え……?」

「ごめんって……何に謝ってるの?」

「それは……」


 口ごもりながら、そういえば――と、思い出していた。いつだったか、遊佐に忠告されたよな。『じゃあ、とりあえず』で謝るのはやめろ、て。

 ほら見たことか、とほくそ笑む遊佐の顔が脳裏をよぎった。

 ――まずい。

 何に、て具体的に問われると……返答に困る。何を謝ればいいんだ? なんで、香月はこんなに怒ってる? 勝手に樹さんと変な約束しちゃったから……か? そのせいで、今日、イチャイチャできそうにないから? それとも、樹さんとの約束を忠実に守ろうとしているからか? 典子さんにだって、『真に受けるな』って言われたし……香月もそう思ってるのかもしれない。

 どれだ? どれを謝ればいい? もはや、全部……か?

 そうして俺が逡巡している間も、香月は一言も発さず、どんどんと空気が重くなっていくようだった。

 窓の外は、雲一つない夏晴れの青空に朱色が滲み始め、実に絵になる情景が広がっている――というのに。この部屋だけ雲行きが怪しくなって、台風でも来そうなおどろおどろしさがある。

 キリキリと心臓が縮こまっていくような……そんな胸の痛みを覚えながら、どうしようか、と視線を泳がせていると、


「私の身体だ」


 ひとりごちるように、香月がぽつりと呟いた。

 ハッとして見れば、


「私の身体に誰が触っていいかは私が決める。樹兄ちゃんや、陸太が決めることじゃない」


 清々しいほどにすっぱりと、そして、覚悟を感じさせるような芯のある声で言って、「それで――」と香月は俺に顔を向き直した。


「私は陸太がいい、てさっきちゃんと言った。陸太に触ってほしい。陸太じゃなきゃ嫌だ。ずっと、そう思ってきた」


 どこか悔しげにも見える真剣な表情でまくし立てられ、「あ……」と間の抜けた声が漏れていた。

 論破、てやつだ。

 何も言い返せない。そして、何か言い返したい……とも思わなかった。

 そうだよな――と、心の底から思った。

 そりゃ、怒るに決まってる。香月の身体のことを、俺と樹さんがどうこう勝手に決めていいわけないよな。そんなの『約束』と呼べるものじゃない。香月への侮辱だ。傍で聞いていた典子さんも呆れていたのかもな。だから、あんな暴露の仕方をした……んだろうか。

 呪いでも解けたかのように、体がふっと軽くなった気がした。

 改めて香月を見つめると、まだ不機嫌そうに俺を睨みつけるその顔が、今は切ないほどに愛おしく思えた。

 さっきまで怯えていたのが嘘のようだった。すっかり恐怖心は消え、凪のように静まり返った心に、ふつふつと何か熱いものがこみ上げてくるのを感じる。

 もう何も迷う必要なんてないよな。

 香月が『嫌だ』と言ったんだ。俺じゃなきゃ嫌だ、とまで言われて、引けるわけがない――。

 俺もベッドに上がろうと、腰を浮かしかけたときだった。


「でも、いいんだ」ふいに、香月は諦めたようにため息吐いて、苦笑じみた笑みを浮かべた。「樹兄ちゃんに何か言われたら、きっと陸太は気にする――て、私も分かってたし、だから会わせないようにしてた。私に触るな、て樹兄ちゃんに言われて、『はい』って答える陸太のことも想像ついちゃうし、陸太らしいな、て思う」


 ん……? なんだ? なに、この話の流れ? 『いいんだ』って……どういうこと? 気のせい……だろうか。香月、まとめに入ってない!?


「だから、無理しないでいい」と、すっかり機嫌を直したようにコロリと香月は笑った。「私は陸太のカノジョだから。陸太のそういうところも、ちゃんと分かってるし……やっぱり、かわいいな、て思っちゃうんだ」

「かわいいって……」


 また恥も躊躇いもなく、そんなことを言いやがって……って、いや、そんな場合じゃない!

 間違いない。香月のこの感じ……完全に諦めモードだ。今にも、今日はイチャイチャは諦めよう、て言い出しそうで――。


「いや、香月、俺は……」と、咄嗟に声を上げる俺を、香月は「大丈夫!」とぴしゃりと遮り、抱いていたクッションを勢いよくベッドの上に置いた。


「おかげで緊張が一気に解けた。頭がすっきりした。初心しょしんを思い出した」


 凛とした声できっぱりと言って、香月はさっさとベッドから降りた。そして、「初心?」と眉を顰める俺の前に佇むと、


「陸太。私ね、一つだけ――モナちゃんに絶対に負けないところがあるんだ」


 いきなり、モナちゃん!?


「な……なんだよ、急に?」


 すると、クスリと笑って、香月は悪戯っぽく言った。


現実リアルのカノジョの本気を見せてあげよう」

「は……? 本気……?」


 何を言い出したんだ――とぎょっとする間もなく、香月は俺の両腿を挟むようにベッドに膝を乗せ、俺に跨ってきた。

 あまりにもいきなりで。戸惑う暇もないくらいで。状況を理解するのに少し時間がかかった。

 ただ、頰を染め、緊張と覚悟を滲ませる彼女の顔がすぐそこにあって。俺を見つめるその瞳は心許無く揺れていて。のことを、否応無く思い出させた。


「樹兄ちゃんに言われたことが、気になるなら……それでいい。そんな言葉は、私が忘れさせてあげる」


 しんと静まり返った部屋で、香月は囁くようにそう言った。そして、俺の胸にそっと両手を置き、どこか切なげにも見える不敵な笑みを浮かべた。


「私の気持ちは、ずっと変わらない。私はなんでもする。陸太が触れてくれるなら――」


 その言葉を聞いた瞬間、ビリッと全身に電流でも駆け抜けたようで。俺は我に返ったようにハッとして、「だから、お前は……」とムキになったように言い放っていた。


「そういうことを先に言うな! 告ったときも、そうだっただろ。大事にする――て、先に言いやがって」

「へ……」


 まさか、俺に文句を言われるとは思ってもいなかったのだろう。俺に跨ったまま、香月は目を丸くして、ぽかんとしてしまった。

 その顔も可愛い、て思ってしまうから、俺もよっぽどだよな。


 俺を見つめる儚げなその眼差しも、わずかに膨らんだ胸元も、はだけたスカートから覗く白くほっそりとした太腿も……ほんの数ヶ月前まで、違和感しか覚えなかった。まるで、『親友』がいきなり別人になってしまった気がして。得体が知れなくて。初めて向かい合ったとき、『カヅキ』をきみだとは思えない――と、俺は面と向かって言ってしまった。

 でも、今は、その姿を見るだけで胸が満たされるようで、たまらなく愛おしくなって……触れたくなるんだ。


「もう、それ……俺のセリフだから」と照れ臭くなりながらも、俺は苦笑して言った。「俺はなんでもする。お前に……触れられるなら」


 たちまち、香月は目を見開いて、顔を真っ赤に染めた。

 『だから、樹さんとの『約束』のことは許してください』――なんて続けようと思っていたのに、言葉が出なくなってしまった。

 大胆に俺に跨っておきながら、香月は急にオロオロと視線を泳がせ始め、落ち着きなくモジモジとし出して……そのたじろぐ様があまりにあからさまで。恥じらいがはっきりと見て取れて。俺まで一気に恥ずかしくなってきてしまった。

 さっきまでの凍てつくような空気が一転、真夏の暑さが戻ってきたようだった。クーラーがついているはずなのに、じわじわと体が熱くなってくる。

 香月以上に赤面している気がして、俺はたまらず香月から顔を逸らしていた。

 そんなとき、「じゃあ……」と香月が遠慮がちにぽつりと言う声がした。


「今度、ハーデスの練習、見に来て」

「は……?」


 ハーデスの練習って……出禁は?

 カブちゃんの話によれば、俺が見に来ると思うと緊張して手が震える……んじゃなかったか。好きな人に見られると思うだけでゾクゾクする、とかなんとか。その話を思い出すだけで、口元がむずむずとしてくるけど。


「行きたい……けど、いいのか?」


 思わぬ『条件』に戸惑いながらも顔を向き直すと、香月は伏せ目がちに俺を見てきて、「ん」とぎこちなく微笑んだ。まるで、何かをごまかすように――。


「たぶん、今日でもう……大丈夫になる気がする」

「大丈夫って……なにが?」

「なんでもない」


 フフッと笑って、香月は俺に身を寄せ、そっとキスをしてきた。

 たどたどしさもなく、かといって、激しいわけでもなく。ふわりと優しく唇を合わせるようなそれは、今までのどのキスよりも穏やかで繊細な感触がして――香月の心に触れているような、そんな感じがした。

 どっと胸の奥からこみ上げてくる想いが、溢れ返りそうになる。

 大好きだ――て、今、言葉にできないのが歯がゆくて。彼女とのほんのわずかな距離さえ、もどかしく思えて。俺は彼女の背中に手を伸ばし、そのか細い身体を抱き寄せた。

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