第18話 ここからは、二人で

 やっぱり、カノジョ? いや、そりゃ……香月はカノジョだけども。

 妙に含みを持たせた言い方で。どういう意味だろうか、と典子さんを見るが、典子さんは静かに微笑を浮かべるだけで、それ以上何か言うわけでもなく。すぐに俺から視線を逸らすように香月を横目で見ると、「大丈夫よ、カヅちゃん」と少し演技じみた口調で言った。


「陸太くんは立派に樹さんに立ち向かったわ。『カヅに指一本触れるな』なんてひどいことも言われたけれど、しっかりと『はい』と返事をして、男同士の固い約束も交わしてね、樹さんもご満悦で去って行ったわ」


 え……? え……!?

 なに? 今、なんて……!? 確かに、簡潔に言えば、そう……なのかもしれないけど……ちょっと違くないか!? てか、やっぱ、さっきの『契り』がどうの、という話は……か!


「の……典子さん!? なんで、いきなり、その話を……ってか、語弊がすごい気が……!」

「それじゃあ、私はそろそろ行くわ。またお夕飯のときに会いましょう、カヅちゃん」


 俺の言葉など聞く耳持たず。さらりとセミロングの黒髪をなびかせ、典子さんは颯爽と歩き出した。

 いや……行くって、今、このタイミングで……!? すれ違いざま、慌てて、「ちょっと……待ってください!」と引き止めようとした俺の肩を、典子さんはぽんと軽く叩き、


「ここからは、がんばってね――


 まるで、そよ風がふわりと通り過ぎていったかのような……それは、そんな優しげな囁き声だった。

 あまりに予想外の言葉で。一気に動揺もぶっ飛んで、呆気に取られた。

 いきなり、樹さんとの約束を香月にぶちまけて……かと思えば、『二人でがんばって』って――分からん。典子さんの考えがさっぱり読めない!

 当然、返す言葉も思いつかず。唖然としながら、玄関へ向かう典子さんの背中を見つめていると、


「典子さん、いろいろ、ありがとうございました。樹兄ちゃんによろしく伝えておいてください」


 その瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走った。

 それは、確かに香月の声。凛として澄んだ、耳に心地よい香月の声――に違いないのだが。なんだろう……それはやけに堅く、ひんやりと冷たい感じがして。まるで、氷柱を思わせるような声で……。

 ぴしりと体が凍りついたように固まって、振り返ることもできなかった。


「そのつもりよ」


 緊張感などない、伸びやか声で言い、典子さんは背を向けたまま、ひらひら手を振り去って行く。

 やがて、バタン、と玄関の扉が閉まる音が廊下に響き渡り、不気味なほどの静寂が家を丸々包み込むようだった。真夏の夕方、ここだけ一気に氷点下まで下がったんじゃないか、という冷え切った空気が漂い、吐く息が今にも白く見えてきそうな気がした。そんな中、ふと、僅かにため息吐くのが聞こえ、


「陸太さん――」


 陸太……さん!?

 なんだ……なんなんだ、その呼び方? なんで、そんな改まって……。

 すさまじく……嫌な予感がしていた。全身の筋肉が凝り固まっていくようだった。それでも、このままそっぽを向いているわけにもいかない。無理やり首を捻るようにしておそるおそる振り返ると、香月が腕を組んで、じっとこちらを見ていた。


「とりあえず、少し話そうか」


 そっと目を細め、唇の片端を上げるようにして浮かべた笑顔は、まさに王子様のごとく、品良く涼やかで。そして、ぞっとするほどに完璧で。それは、明らかな……『作り笑顔』だった。

 あ、怒ってる――とはっきりと分かって、そのとき初めて、俺は香月カノジョを怖いと思った。

 ごくりと生唾を飲み込み、「は……はい」と消え入りそうな情けない声で俺は答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る