第17話 理由

 の……典子さん!? な……何を言い出すんだ? 契りを交わしたって……まさか、じゃ――ないよな!?


「陸太が樹兄ちゃんと契りって……また、そんな変なことを言って」


 動揺しまくる俺には気づいていないのだろう、香月は呆れたようにため息吐いて、典子さんに振り返った。


「こっちは、ついさっき、騙されたばっかりなんですから。その手には乗りません。そもそも、樹兄ちゃんなら、今、典子さんとアウトレットに行ってていない――」


 そこまで言って、ぶつりと言葉を切った香月。

 さっきも、こんなやりとりがあったような……と、現実逃避のように思い出していると、


「ほんと……そういうところ、あなたたち兄妹はよく似てると思うわ」


 しんと静まり返った廊下に、典子さんの残酷なほどに冷静な声が響いた。

 刹那、きゃあ、と聞いたこともないような悲鳴を上げて、香月は慌てて俺に顔を向き直した。


「陸太! 逃げよう!」

「は!?」

「早く……とにかく、私の部屋、行こう! 理由はあとで言うから……お願い、今は私を信じて一緒に来て!」


 鬼気迫る勢いに圧され、俺は「ちょっと、待て」とたじろぎながら後退っていた。


「落ち着け、香月! 俺、もう――」

「もう、理由はしっかり陸太くんは聞いてるわよ。樹さん本人から」


 俺の言葉をするりと掠め取るようにして、典子さんがずばりと言った。ハッとして見れば、典子さんはゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、


「すっかり狼少年ね。ごめんなさい」とおっとりとした口調で続けた。「でも、さっき言ったことは本当よ、カヅちゃん。樹さんもさっきまで居て、三人で話してたの。今は車で待っているけれど」


 香月の隣で立ち止まると、「そうよね?」とでも言いたげに典子さんは俺に一瞥をくれた。食い入るように典子さんを見つめていた香月も、それにつられたように俺に視線を戻し、「じゃあ……」と不安げに口を開いた。


「本当に……全部、聞いたの?」


 聞かれて、一瞬、ぎくりとしてしまった。

 落ち着け――と、自分に言い聞かせる。慎重に答えないと。香月の『全部』は、全部じゃないんだ。樹さんが俺の女性恐怖症を疑っている事実を、香月は知らない。知らないままでいてほしいと思う。だから、ここでうっかり口を滑らせないようにしないと……。

 とりあえず、余計なことは言わないように「ああ、聞いた」とだけ答える。すると、逡巡するような間があってから、「そっか」と香月は諦めたように力無く言った。


「ごめん。実は……そうなんだ」しゅんとして、香月は気まずそうに声を落とした。「なんでかは分からないんだけど……陸太に女だって知られたことを話してから、急に樹兄ちゃんの態度が変わっちゃって。『女だってバレたんなら、もう付き合いはやめろ』って言われるようになったんだ。付き合ってからも、『別れろ』ってしょっちゅう言われてて。でも、私は、樹兄ちゃんのこと、よく知ってるから。小さい頃から、嫌なことも散々言われて来たし、今更、樹兄ちゃんに何を言われても気にしない。今回のことだって、相手にしてなかった。

 ただ――陸太はそうはいかないよね」


 ふいに俺の名前が出て来て、「へ」と惚けた声が漏れていた。

 そんな俺に、香月は哀れみのこもった笑みを浮かべ、「だから……」と切なげに続けた。


「まだ、陸太を樹兄ちゃんに会わせなくなかったんだ。会ったら、きっと、樹兄ちゃんは陸太にも『別れろ』とか言い出すから。勝手なことを言って、陸太を傷つけると思ったから。そんなこと、絶対にさせたくなかった」

 

 そのとき、ふいに脳裏をよぎったのは、付き合う前の出来事で。合コンのあとに二人でカフェに入ったときのことだった。樹さんが香月を迎えに来て……そのとき、車まで送ろうとした俺を、香月は頑なに拒んだんだ。

 あのときは、GWに香月が護とデートをするものと思い込んでいて、その挙句、カフェの二階から香月が車に乗り込むのを見送ることしかできなくて……虚しい気分になったものだが。

 そうか。それでか――とようやく納得できた。あれは、そういう理由だったのか。相変わらず、香月は俺を守っていたわけだ……。


「でも……こんな形で知られるくらいなら、私から言っておくべきだった」


 悔しさが滲む声で言ってから、香月はまっすぐに俺を見つめ、改めて「ごめん」と気持ちが良いくらいに潔く謝った。

 男前か――とツッコミたくなる。その上、今度は「大丈夫だった? ひどいこと言われなかった?」と心配そうに確認してくるんだもんな。至れり尽くせり……というか。過保護すぎ、て合コンのときに小川原さんが言っていたけど、その通りだよな。甘やかされている、という自覚はさすがにあって。己の不甲斐なさを思い知らされて、情けなくなるくらいだけど……。俺にはもったいないくらいのカノジョだと、心から思う――。

 だから、せめて、安心させたくて。「大丈夫だ」と力強く答えようとしたとき、フフッと意味ありげに笑う声がした。


「やっぱり、カノジョね」

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