第16話 真っ直ぐ
「戯言?」
「カヅちゃんに指一本触れるな――なんて、単なる君への嫌がらせよ。カヅちゃんのことを考えての言葉ではないわ。樹さんが君を困らせたくて言っただけ。それは……分かってるわよね?」
「え……」と固まってしまった。
そうなの? ただの……嫌がらせ!?
「まさか……君、本気でカヅちゃんに指一本触れない気だったんじゃ無いわよね?」
疑るような眼差しを向けられ、俺は閉口した。それだけで、十分、『答え』になったのだろう、典子さんは呆れたようにため息吐いて、
「純粋というか、
気怠げにそう呟くと、「君ね……」とどこか責めるように言って天井を指差す。
「カヅちゃん、今、何のために一生懸命、部屋で仕込んでいると思っているの?」
またか……!?
「だから……仕込んでるって、なんのことなんですか!? 片付けですって……」
「確かに、君たちは高校生だし、節度あるお付き合いはするべきだと思うわ」と、俺の言葉は無視して、典子さんは腕を組んで続ける。「まだ、カヅちゃんの準備が出来ていないことをするべきではない。それは男の子の君が、カヅちゃんのことをよく見て、カヅちゃんの言葉に耳を貸して、しっかりと慮ってあげるべきことよ」
「それは……」
言いかけ、自然と視線が傍らにあるソファへと落ちていた。
指切りげんまん、針千本飲ーます――て、小指を絡めて子供みたいに歌う香月の姿が、まだありありとそこに浮かび上がるようで。それだけで、体から力が抜けて、胸の奥が暖かくなる気がする。
大丈夫だ、て思える。
「それは……分かってます。香月が嫌がるようなことは俺は絶対にしません」
典子さんを見据えてはっきりとそう答えると、
「そう」と典子さんは声を和らげ、やんわりと微笑んだ。「それが分かってるなら、あとは……君がさっき、自分で言った通りよ。カヅちゃんを幸せにしてあげて。樹さんじゃなく、ね」
その瞬間、ハッと息を呑んだ。
目から鱗というか。そっか――という言葉がどこからともなく湧いてくるようだった。そう……だよな。俺が香月に指一本触れなかったとして、喜ぶのは香月じゃなくて樹さんだ。
確かに、そうだ。典子さんの言う通りだ。そう――なんだけど……。
「でも……」と、俺はぐっと拳を握りしめ、渋面を浮かべて典子さんを見つめた。「俺、『はい』って……言っちゃったんで……」
「ん?」
それまで微動だにすることのなかった典子さんの眉が、ぴくりと動いた……ように見えた。
「ごめんなさい? どういう……意味かしら?」
「香月に指一本触れるな、て樹さんに言われて……俺、『はい』って言っちゃったんで……。これから見ていてください、とか偉そうに言ったのに……いきなり、約束破るのは、どうなんだろう、て思って……」
「約束……」
ぽつりと言ってから、典子さんはぐいっと顔を寄せてきて、興味深げに俺をまじまじと見つめ、
「君は……真っ直ぐなのね」
「は……はい!?」
「なるほどね」と呆れつつも感心したような、気の抜けた声で典子さんは呟く。「そんな君をカヅちゃんは好きになったのね」
「な……なんですか、急に!?」
「きっと、その性格のせいで苦労することもあったのだろうけど……そういうところ、これからも大事にして欲しいと思うわ」
ふっと微笑みながら囁くように典子さんはそう言って、「でも」とふいに身を引いた。
「真っ直ぐすぎて、私の手には負えないわ」
さらっとそう呟いたかと思えば、典子さんはセミロングの髪をふわりとなびかせながら身を翻し、あっという間にリビングから出て行った。挨拶も、振り返る素ぶりすらなく――。
あまりにいきなり、置き去りにされ……またしても、俺は一人、リビングで途方にくれた。
なに? なんだったんだ、今の……?
何の前触れもなく、突然、一人残される戸惑いと虚しさたるや。プラネタリウムで元カノに置いていかれたという、樹さんの気持ちはこんな感じだったのだろうか……なんて思いながら呆然としていると、
「カヅちゃーん!」と、廊下のほうから典子さんの高らかな声が聞こえて来た。「いい加減、降りて来なさい。陸太くん、帰っちゃうわよー!」
「帰っちゃう!?」
ぎょっとして思わず声を上げた瞬間、二階から大きな物音がして、やがて、慌ただしく階段を駆け降りてくる足音が聞こえてきた。そして、
「典子さん、なんでいるの!?」
そりゃそうだよな……という、ひどく取り乱した香月の声に同情しかけ――て、いや、俺は何を他人事みたいにのんびりしてんだ!?
かなり出遅れた気もするが、慌ててリビングから飛び出すと、すぐ右手の奥、玄関から廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりにある階段の前で、二つの人影が向かい合っていた。「財布を取りに戻るって連絡は入れたのだけれど……」と腰に手をあてがい、少しわざとらしく困ったように語る典子さん。その向かいには、すらりと背の高い人影があった。そのほっそりとした体を強調するようなタイトなカットソーに、すとんと落ちたようなシルエットの膝丈スカート。シンプルながら爽やかで清楚な印象のその格好は、やっぱりよく似合うと思った。
実際、離れていたのは十分程度だっただろうに。もうずっと会っていなかったかのような、そんな気分にさえなった。その姿を見ただけで、話したいことが……伝えたい気持ちが、わっと湧いてくるようで。胸がいっぱいになって、息が詰まる。香月――て呼ぶ声さえ出てこなくなって、アホのように立ち尽くしてしまう。
そんな俺の視線に気づいたのか、典子さんと話し込んでいた香月は、ふいにこちらに振り返り、ハッとした。がらりと表情を変えると、「陸太!」と勢いよく駆け寄って来て、
「帰らないで……!」
目の前で立ち止まるなり、今にも泣きそうな、張り詰めた声を廊下に響かせた。
短い前髪の下でこちらを縋るように見つめる瞳は、澄んだ水面のように揺れ、キラキラと輝くようで。悩ましげに顰めた眉も、きゅっと堪えるように引き結んだ唇も、艶めかしく思えて、自分の中で何かが大きく揺さぶられるような……そんな感覚を覚えた。
抱きしめたい――という衝動が体の奥底からこみ上げてくる。
それを堪えるように両手の拳を握りしめ、「帰らねぇよ」とぎこちなく笑って言った。
「典子さんの勘違い……か、冗談だよ」
ですよね、と同意を求めるようにちらりと典子さんを見るが、典子さんはうっすらとモナリザの如く微笑を浮かべるのみ。いや、分かりません。全く、感情が読み取れません。
「良かった……」
今にも消え入りそうな、そんな気の抜けた声に視線を戻せば、香月が胸元を押さえて、ふにゃりと表情を和らげるところだった。口許を緩めてほっと息を吐き、じんわりと安堵の色を滲ませて微笑む。そんな彼女を見ているだけで、心が優しく包まれるようで……自然と頰が緩む。ずっとこうして傍にいたい、なんて思ってしまって。こういう瞬間に、やっぱり俺はこの子が好きなんだな、て実感する気がする。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
俯き、ぽつりと香月は言った。
「片付け終わったら、急に緊張して来ちゃって……なんか、涙出て来て……」
涙……?
「え!? な……泣いてたのか!?」
ぎょっとして訊けば、香月は伏せ目がちに見つめてきて、困ったようにはにかんだ。
「だって……何年も、ずっと待ってたことだから」
掠れた声で、熱っぽく囁かれ…… 背筋がゾクリとした。
ダメだろ、それは。反則だ。
思わず、よろめき、一歩下がっていた。
何でもいいから叫びたくなった。そうでもしないと、衝動がまぎれそうになくて――と、そのときだった。
「あら、カヅちゃんったら」と典子さんの緊張感のない声がした。「そういう感情こそ、本人に体でぶつけるべきでしょう。一人でそんな感慨にふけっている間に、陸太くんはカヅちゃんより先に、樹さんと契りを交わしちゃったわよ」
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