第9話 樹さん

 その瞬間、目が覚めたようにハッとした。

 その低い声は明らかに香月のものとは違くて。そういえば……と改めて見れば、髪の色も香月のそれよりもずっと明るく、金に近い茶色だ。長さだって、顔周りはすっきりしているが、襟足だけ見れば『カヅキ』より――いや、今の香月よりも長い。目元もきつい感じがするし、顎もほっそりとして、肩も香月よりずっとがっちりとして逞しい。

 明らかに別人だ。似ているのは、その顔立ちくらいで。目の前のその人は、間違いなく男で……きっと、香月の――。


「なに、ジロジロ見てんだよ。名乗る気あんの? 通報するぞ」


 スマホを手に脅すように言われて、「あ」と慌てて俺は立ち上がって体を向けた。


「すみません! 俺……あ、いや、僕は、香月の――」


 って、ちょっと待て。こういうとき、なんて自己紹介するんだ? 『香月のカレシの笠原です』? 『香月とお付き合いさせていただいている笠原です』? いや、香月、て呼ぶのはまずいのか? 香月ちゃん? 香月さん? それとも……櫻さん?

 分からん。こんな状況、初めてだし、いきなりすぎて……準備不足すぎる。正しい作法が分からねぇ!

 口ごもり、視線を泳がせていると、


「カヅの……知り合いか?」とその人は目を眇めて俺をまじまじと見てから、表情を和らげた。「なるほど、確かに高校生……だな。さっさとそう言えよ。無駄に寿命縮まったわ。――俺、カヅの兄貴な」


 やっぱ、お兄さんか。となると……ぱっと見、年は近そうだし、考えられるのは一人だけ。


「樹さん……ですか?」


 おずおずと訊ねると、「お」とお兄さんは目を丸くして、フッと笑った。器用に唇の片端を上げ、『カヅキ』みたいに涼しげに。


「そうそう、『樹さん』。よく知ってんじゃん。まじで空き巣じゃないみたいだな」


 からかうように言って、樹さんは部屋の中へと入ってきた。

 この人が樹さんか――と一気に緊張が高まって、体が強張る。そんな俺をちらりと一瞥して、樹さんはダイニングの方へ向かいながら、


「その辺に財布落ちてね? 黒革のやつ」

「さ……財布!?」


 いきなりだな、と面食らいつつも、言われた通り、足元を見渡して黒革の財布らしきものを探す……が見当たらない。一応、ソファの下も見てみようか、と思ってしゃがみこむ。


「カノジョとアウトレットに行く途中で財布忘れたの気づいてさ。財布無いカレシなんて、晴れの日の傘みたいなもんじゃん?」

「そ……そうなんですか?」

「慌てて引き返したんだよな。財布ん中に免許証も入ってるしさ。カノジョに運転代わってもらって……情けないったらねぇわ」

「大変……でしたね」

 

 『晴れの日の傘』の喩えはよく分からないけど、免許証なしで運転はまずい……んだよな? うちの親もよく、出かける前に免許証を確認してるし。

 それでか――と、ようやく事態が呑み込めてきた。

 樹さんとデートに行くから八時頃までは帰ってこない、と香月は典子さんから聞いていたはずだった。だからこそ、香月は俺を家に呼んだわけで。樹さんと出くわすなんて、俺はこれっぽっちも予想していなかった。

 こうして、今日、樹さんと顔を合わせることになるなんて予想外で、いきなりで驚いたけど……俺としては、もう何年もずっと『樹兄ちゃん』と会ってみたいと思ってきたから、これはこれでラッキーというか。素直に嬉しい。香月と一緒にいるときとは違う胸の高鳴りを感じていた。有名人にでも会ったような気分だ。

 ソファと床の間に何もないのを確認して起き上がり、「こっちは無さそうです」と言うと、「マジか」とダイニングを見回しながら樹さんは答えた。

 

「参ったな」と髪をくしゃりと掻き上げながら、「あ」と思い出したように言って俺のほうを振り返る。「てか、お前、カヅに会いに来たんだよな? 今、出かけてて、夕飯まで帰って来ないぞ」

「え……」


 思わず、きょとんとして目を瞬かせていた。

 そっか、と今更気付く。

 そういえば……樹さん、俺がなんで家の中にいるのか、とかそういうことは聞いてこなかったな。俺は俺で樹さんと出会えた驚きでそれどころじゃなくて、うっかりしていたけど。よくよく考えてみれば、俺、まだちゃんと名乗ってない。樹さんは俺のこと『香月の知り合い』としか思ってなくて……カレシだとは思ってないのか。


「あの、実は俺が――」


 慌ててそう言いかけたとき、樹さんは身を屈めて、ダイニングの床を見回しながら続けた。


「カヅな、もう何年も前から、変な奴に付きまとわれててさ。最近、そいつと付き合いだしたんだよ。陸太とかいうクソ野郎でさ、早く別れろ、て言ってんだけど聞きゃしない。今もそいつとデート行ってんの」


 あ、それ、俺です――と言いそうになって、ハッとして口を噤んだ。

 いや、待て。今、何て言った?

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