第5話 約束

 びくんと香月が震えるのが分かった。その拍子に少し離れそうになった唇を追いかけるように、自分のそれを強く押し当てた。

 正直、やり方なんてよく分からねぇけど。でも、唇が触れた瞬間、細かいことは頭から吹っ飛んでいた。本能――てやつなんだろうか、こみ上げてくる何かに突き動かされるように、目を閉じ、ただ、その感触を味わった。

 前はあまりにもいきなりで、ほんの一瞬で。気づいたときには、唇には余韻しか残っていなかったから。

 今はたっぷりと味わいたくて。何度もその感触を味わうように唇を重ね合わせた。

 ふにっとした柔らかさはあまりにも心地よく、その瑞々しさは果実のように甘く感じて。病みつきになる。もっと――とどこからともなく、欲が湧いてくる。

 もっと香月を知りたい、と思う。もっと彼女に触れてみたい。心でも、体でも。もっと深く彼女と繋がりたい、と狂おしいほどに思う。

 そうして、夢中で唇を重ね合わせるたび、波のように押し寄せてくる恍惚感に意識が乗っ取られていくようだった。

 欲望のままに求めるような……そんな粗雑なキスも甲斐甲斐しく受け止め、ときおり、「ん」と苦しげな声を漏らす彼女が、いじらしくてたまらなくて。腹の底で眠る何かを揺すり起こされているような気がしてくる。それは今まで、『カヅキ』には抱くことのなかったもので。愛おしさとはまた違う、嗜虐的にも思える何かで――。

 やっぱり、怖いと思った。

 名残惜しく、そっと唇を離すと、「へ……」と香月は気の抜けた声を漏らした。

 香月の耳元に添えた手も離し、ゆっくりと身を引く。改まって向かい合って見つめた彼女は、寝起きみたいにぼうっとした表情を浮かべていた。頰を紅潮させ、とろんとした眼差しで俺を見つめ、艶めいた唇はどこか寂しげにうっすらと開いたまま。締まりなんてない、無防備そのもの。体からも力が抜けているのが、目に見えて分かった。

 なんて体たらくだ、と呆れながらも、どうしようもなく体の芯が熱くなってくる。

 理性というものを意識したのは初めてで。それがガタガタに揺らいでいるのがはっきりと分かった。

 だからこそ、怖いと思う。ちょっとした拍子で、何かしでかしてしまいそうで。香月を傷つけてしまいそうで不安になる。でも、それ以上に――。

 俺は覚悟を決めるようにすっと息を吸い、


「だ……大好きだ、かづき……ちゃん」


 真っ直ぐに香月を見つめ、噛みまくりながらもはっきりと言った。

 すると、香月は「はわ……!?」と変な声を上げて目を見開いた。ぎちっと体を強張らせ、何度も目を瞬かせながら、みるみるうちにその表情を硬くしていく。寝ぼけてた人が覚醒していくような……そんな様を目の当たりにしている気分だった。


「な……な……なんで……急に、そんな……!?」


 急に狼狽え始め、香月はソファの上であたふたとし始めた。真っ赤になった顔を両手で抑えると、俺から隠すようにそっぽを向き、


「陸太が……陸太から……キスしてくれた!? しかも、なんか長かった気がする! とろとろだった!」

「お前……目の前で感想を言うな!」

 

 って、とろとろってなんだ?


「どうしよう」と言いながらも、顔を覆った両手の隙間から香月は笑みを覗かせていた。「幸せすぎて……なんか泣きそう」


 嬉しそうでいて……確かに、その声は震えていた。

 そこまで喜ぶとは思ってもいなくて。呆気にとられながら、鳩尾の辺りをぎゅっと抓られるような痛みを覚えた。

 こういう姿を見るたびに、女の子だな、と気づかされる。慌てたり、ムッとしたり、恥ずかしがったり……コロコロ表情を変える彼女が愛おしくて、大好きだ、て心の底から思う。

 どんなに怖いと思っても、それ以上に、俺は香月が好きで……やっぱり、香月に触れたい、て思うから――。

 

「なあ、香月」と俺は改まって、落ち着いた声で切り出した。「約束してくれ。嫌なときは嫌だ、てちゃんと言う、て」

「え……?」


 何やら身悶えしていた香月ははたりと止まり、顔を上げてこちらに振り返った。

 いきなり、なんだ、と不思議そうだ。 


「俺のために無理はしないで欲しい。一人で抱え込まないで欲しい。だから、約束して欲しいんだ」

 

 約束……なんて。まるで子供みたいだな、て自分でも呆れるけど。


「俺はきっと……分からないからさ」と香月から視線を逸らして苦笑して言う。「察するとか、苦手だから。お前が苦しんでても気づいてやれないかもしれないから。言って欲しいんだ。嫌だとか、つらいとか……そういうの、言葉で伝えて欲しい。こんなこと頼むのも情けないけど――」

「分かった」


 俺の言葉を遮るようにして、香月はすんなりとそう答えた。

 ハッとして見やれば、香月はさっきとは違ってしゃんとして、凛々しくも涼やかな表情で正座していた。

 

「約束する」言って、香月はおもむろに右手を挙げ、ちょいっと小指を上げた。「指切りしようか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る