最終章

第1話 イチャイチャ

 イチャイチャって……何すんの?

 ふわっとしたイメージはあるけど……分からん。具体的に何をどうしたらいいんだ?

 十六年間生きてきた中で、恋愛経験なんてゲームの中のみ。二次元世界の五千ポリゴンのカノジョとしか積んでこなかった。つまり、今まで付き合ったことがあるのは、決して触れられない存在で。当然、イチャイチャなんて、スマホの画面越しに見つめ合って、マイクを通じて『好きだよ』とか『かわいいよ』とか……そういうことを囁くくらい。

 現実リアルの女の子を好きになったのは、絢瀬が初めてで。無自覚のまま失恋してしまった。それから女性恐怖症になって、まともに女子と接することもないまま――香月を好きだと気づいた。そして、付き合うようになってほんの二ヶ月。不意打ちのキス一回、ハグ一回……そんで、ようやく手を繋げるようになった程度の経験値しかない。

 だから、途方に暮れていた。

 傾きつつある太陽の陽が窓から差し込み、縦長に伸びたリビングの奥まで光を行き届かさせていた。そんな中、俺は一人、テレビの向かいにあるL字のソファに座り、渋面を浮かべて俯いていた。

 誰もいない香月の家なんて、いつものこと。それなのに、今日ばかりはその静けさが落ち着かない。リビングの端にある空気清浄機の低い音がやたらと耳に付く。新緑の森の中にでもいるような、相変わらずのその澄んだ空気も、どんなに息を吸おうが、全然、肺に入ってくる気がしない。

 ちらりと横目で見れば、奥のキッチンで香月が冷蔵庫を開けていた。まるで平静。オレンジジュースを取り出して、コップに注ぐその様は今までと何も変わらないように見える。イチャイチャというものを、してみませぬか――と緊張もあわらに言ってきたのが嘘のようだ。

 あのあと――俺は奇声を発するや、固まってしまった。『イチャイチャ』なんて思わぬことを言われて思考がストップ。どうしたらいいかも分からず、立ち尽くした。そんな俺を見て、香月が「さすがに、まだ早いか」なんて、無理したように笑うから。「んなことねぇよ!」って、気づけば大見得切っていた。

 その勢いのまま、こうして香月んまで来てしまったわけだが。

 どうしよう……と俺は重い溜息ついて、再び視線を足元に落とした。

 嫌なわけじゃない。むしろ、香月に触れたいと思う。触れたくてたまらなくて……だからこそ、不安になる。イチャイチャ、てどうすればいいんだ? どこから……触っていいんだろう――て、分からなくて怖くなる。


「はい、どーぞ」


 コツンと小気味良い音がして、香月の涼やかな声が聞こえた。

 ハッと我に返って顔を上げれば、目の前のローテーブルの上にオレンジジュースの入ったコップが置かれていた。


「暑かったね〜」ふわりと隣で座る気配がして、緊張感の無いあっけらかんとした声がした。「真夏に歩かせちゃってごめんね。とりあえず、それ飲んで涼んで」


 視界の端で、ミントグリーンのスカートから覗く膝が見えた。それだけで、ぞわっと腹の底で疼くものがあって、


「あ……ああ、ありがとう」


 慌ててコップを手に取り、オレンジジュースを口に含む。そんな俺を横から見つめる視線を感じつつ、暑さのせいなのかなんなのか、火照って仕方ない体を冷やすべく、一気に飲み干さんとしていると、


「陸太……大丈夫? もう、すごく硬くなっちゃってるけど」


 そっと囁かれたその言葉に、思わず、ジュースを噴き出しそうになった。


「お前……!?」とむせながら、勢いよく振り返り、「な……何が……何の話を……!? いくらなんでも、そういうからかい方はやめろよ!?」


 慌てふためく俺を、香月はきょとんとして見つめて小首を傾げた。


「からかうって……? 表情が硬いな、て……思っただけで」ぼんやりとそう言ってから、香月は訝しそうに眉を顰めた。「陸太こそ、何の話を……」


 ひょ……表情!?

 げ……と、顔は熱いのに、さあっと体が一気に冷え切っていくようだった。


「何も!? 何の話もしてない!」


 大慌てで首を横に振り、必死にごまかそうとしたのだが、香月は「あ」とぱっちりとした目を見開いて、


「ああ……」

「納得するな! 頼むから!」


 最悪だ……! アホすぎる。意識……しすぎだろ!?

 もう血の涙でも出てきそうな恥ずかしさ。穴があったら入りたい、てまさにそんな心境だ。

 そんな俺を腹立たしいほどに微笑ましく眺めながら、香月は「へえ」と興味深げに呟く。


「まんざらでもないんだ。可愛いなぁ」

「だ……だから、可愛い、て言うな!」

「これはもう……ギュッてしてうにうに――だな」

「お前、話聞いてんのか!?」


 未だかつてない恥辱に動揺しまくり、ワケも分からず、夢中で声を荒らげて……ふいに、ハッとする。

 ギュッてしてうにうに……?

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