第13話 変わりゆくもの

 ふわりと柔らかなその肌がじんわりと熱を帯びているのが、手の甲を通じて伝わってきた。

 絡めた指や、合わさった掌――隙間さえ許さないほどに、しっかりと繋がった手の間にも徐々に熱がこもっていくのを感じる。それを自覚するや、みるみるうちに全身も熱くなっていくようだった。

 手を繋いだだけで……。昔は当然のようにやっていたことなのに。ちょっと繋ぎ方を変えただけで、こんなにも違うものなのか、と『恋人繋ぎ』の威力に驚きかけて――いや……とすぐに思い直した。

 繋ぎ方の問題じゃ無いんだろう。変わったのは……きっと、全部なんだ。こうして隣にいる、てこと以外の全てが変わったんだ。

 俺の手の甲に頬をすり寄せ、うっとりと微睡むように瞼を閉じる香月を見つめて、つい頰が緩む。胸が締め付けられて、息ができないほどに苦しくなって……ああ、抱きしめたい、て思う――こういう気持ちも、昔はなかったんだから。


「本当のこと言うとね」と、ふいに香月は口を開いた。「ずっと、待ってたんだ。こうして、恋人みたいに……陸太が触れてくれるの」


 知ってる。瑠那ちゃんから聞いた――とは、言えるわけもない。「そう……だったのか〜」と咄嗟に出た相槌は我ながら白々しくて、俺はごまかすように咳払いした。

 相変わらず、嘘が下手か。

 しかし、香月は気に留める様子もなく、「そうだよ」とまったりとして言う。


「付き合い始めて、いきなりキスしたり抱きついたり……ひどいことしちゃったから。もう陸太のこと、怯えさせたくなくて……。だから、ちゃんと陸太のペースに合わせよう、て決めて、ずっと手を出さないで待ってたんだ」


 まるで陽だまりで昼寝でもしているかのように。実に穏やかな表情でそんなことをすらすら語る香月につられて、「へえ」なんて呑気に言いそうになったが……。


「ひどいこと!?」


 ぎょっとして、訊き返していた。


「ひどいことって……なんでだ? 俺を怯えさせたくないって……なんのことだ!?」

「なんのことって……」


 ハッとして目を開くなり、香月は俺の手から顔を離してこちらに振り返った。


「女性恐怖症が治ったばかりの陸太に、不意打ちで無理やりキスしちゃったから。女の人に触られただけで蕁麻疹出て……そうやって、苦しんでた陸太を傍で見てきたはずなのに……つい、勢いで軽はずみなことしたな、て思って。陸太のこと、ちゃんと考えてなかったな、て後になって反省したんだ」


 懺悔でもするように弱々しくそう言って、香月はそっと伏せた睫毛の下、気まずそうに瞳を曇らせ、「実際さ……」と視線を落とした。


「あのあと、初デートで陸太の部屋に行ったとき、陸太は全然近づこうとしてこなかったし、ずっと落ち着かなくて……警戒しているみたいだったから。やっぱり、いきなりキスなんてしちゃったから、怯えさせちゃったんだな、て思って……。だから、あのときは、変な気を起こさないように必死に数学やってたんだ」

「な……」


 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことか。

 初デートで、ウチで勉強会をしたとき――香月はやたら大人しくて、黙々と勉強をしていた。告ったときこそ、キスしたり抱きついたり、と積極的だった香月だが、あの日は何もしてくる気配はなくて。そんな香月に俺は調子が狂ったものだが……そういうことだったのか!?

 しばらくあんぐり口を開けてぽかんとしてから、


「親だ!」と俺は身を乗り出して、声を荒らげていた。「俺が警戒してたのは、お前じゃなくて……隣の部屋にいた両親! 話し声は延々聞こえてくるし、しょっちゅうノックしてくるし……気が気じゃなかっただけで。お前に怯えてたわけじゃない!」


 畳み掛けるようにそう言って、その勢いのまま、「てか……」と俺は吐き捨てるように続けていた。


「俺はお前になら何されたっていい! だから、もう変な気は遣うな」


 半ば責めるように香月をねめつけながら、はっきりとそう言い切って……あれ、とふいに我に返る。

 今、俺……何て言った?

 香月のそれが、あまりにも……あまりにも、予想外で見当はずれな勘違いで。焦りと、ほんの少しだが苛立ちもあったのだろう、つい、熱くなっていた。だから、頭で考えるより先に言葉が転がり出ていて……。

 全て言い終えた僅かあとのことだ。俺をじっと見つめる香月の目がみるみるうちに見開かれ、やがて、その澄んだ瞳がキラキラと輝き出し――そのときになって、何かとんでもないことを言ったかもしれない、と気づいた。


「ほんと? ほんとに、陸太!?」


 繋いだ手を肘掛に乗せ、香月は顔をぐっと寄せてきて、子供みたいに弾んだ声を響かせた。その表情はすっかり華やぎ、頰はぱあっと鮮やかに染まっている。瞳を爛々と光らせ、興奮を隠そうともしないその様は無邪気なほどに溌剌として、生気に満ち溢れているというか。水を得た魚のよう……とでも言えばいいのか。

 ここまではしゃぐ香月を見るのは初めてかもしれない、てくらいで。その勢いに圧されるように身を引きつつ、「いや……」と口ごもったとき、ちょうど、シアターの中が暗くなり、辺りのざわめきはたちまち密やかなものへと変わった。

 このタイミングは……どうなんだ? 良いの、悪いの!?

 とりあえず、「映画、やっと始まるな」なんてごまかすように呟いてスクリーンへと目をやると、


「男に二言はないよね?」


 ぼそっと脅すような低い声が聞こえた。

 ぎくりとして視線を戻せば、暗がりの中、唇の片端をあげて怪しげな笑みを浮かべる香月が、スクリーンから溢れる淡い光に照らし出されていた。

 明らかに、何かを期待している……いや、企んでいる。


「お前……TPOっていう言葉は、知ってるよな?」


 苦笑しながら声を潜めて訊ねると、


「知ってるよ」と香月はさらりと答えて、「暗い場所では暗い場所でしかできないことをしよう、て意味でしょ」

「ちょっと……違うんだが!?」


 つい、大声が出て、どこからか咳払いが聞こえた。慌てて口を噤んだ俺に、「ごめん、冗談」とクスッと香月は笑って言った。


「大丈夫。変なことはしないから」気を取り直すように、今度はやんわりと、少し照れたように微苦笑し、香月はちらりとスクリーンを一瞥した。「前、見てて」

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