第9話 なんでもねーよ

 こんなところじゃ……いや――と言ったその声が、耳にこびりついて離れなかった。

 あの瞬間、そんな声も出すのか、と感心というより――関心、に近いものを覚えた。もっと聞きたい、なんて気持ちまで芽生えて、胸がざわめき立って……そんな自分に戸惑った。

 うずうずとモヤモヤが混ざり合ったような、憤りにも似た得体の知れない衝動を鳩尾の奥に感じながら、ずっとそわそわしたまま……気づけば、映画館に着いていた。


 当然、手を繋ぐどころじゃなく、それまでの会話も『ああ』とか『そうだな』とかパッとしない相槌ばかり。何をやっているんだ、と自己嫌悪に陥っているうちに、てきぱきとした(いつも通りの)香月のリードのもと、チケットも買い終え、シアターの中段ど真ん中の席に座っていた。

 次は『銀河大戦争』観に来ようね――と、ここの映画館で香月が言ったのは、もう三ヶ月も前になる。告って付き合うことになって、すぐに中間テストがあって、それが終わるや、香月がホッケーを始め……と、なんやかんやあって、あっという間に時間が過ぎていた。だから、うっかりしていたんだよな。映画だって終わりがある、てこと。いつまでも上映しやっているわけではないんだ、て当然のことを失念していた。

 『そういえば……』と香月からLIMEが来て、それに気づいたのがついこの前。慌てて調べたら、ロングランでなんとか今月いっぱいまで上映していることが分かって、夏休みに入ったらすぐ観に行こう、ということになった。

 やっぱ、人気作とはいえ――夏休みに入って、話題作がこぞって公開を始めたこともあるのだろうが――ロングランも終盤となれば客足も減るようで。観客はまばらだった。ぎゅうぎゅう詰めよりはずっといいが、寂しいもんだ。『終わり』の気配がひしひしと漂っている。

 そんな哀愁漂う客席を眺め、


「ちゃんと観に来れて良かった」


 隣の席でしみじみと呟いて、香月はドリンクのストローを咥えた。


「そうだな……」


 と、またアホの一つ覚えのような相槌が転がり出て、あー! と苛立ちで叫びたくなる。

 だめだ、もうほんと……どうなってんだ。手を繋ぐどころか、まともな会話さえままならなくなってんじゃねぇか。気のせい……だといいけど、香月の口数も減っているような感じもするし。

 ごまかすように俺もドリンクを手に取って飲みながら、ちらりと横目で香月の様子を伺うと――いつから、そうしていたのか、香月は神妙な面持ちでじっと俺を見つめていた。思わず、ぎくりとして、


「え……なに!?」


 と我ながら怪しさたっぷりな上擦った声で訊ねていた。

 しかし、香月は『なに、その反応は!?』と問い詰めてくるわけでもなく、どこか躊躇うような微笑を浮かべ、


「瑠那ちゃん、どうだった? 元気になって……くれたかな?」


 その問いに、あ――と息を呑み、たちまち、熱く滾っていた血が冷めていくようだった。

 そうだった……と思い出すなり、一気に冷静さを取り戻し、「ああ」とバカみたいに繰り返してきた言葉を、今度はしっかりとした口調で言って、俺は香月を安心させるように笑って言った。


「すごく楽しそうだったよ。すっかり元気になった、てカブちゃんも言ってた」


 すると、香月は安堵したように深く溜息吐いて、「よかった」と噛みしめるように呟いた。

 きっと、ずっと聞きたかったんだろうな、とその様子から伝わってくるようだった。落ち着いたところでゆっくり聞こうと思っていたんだろう。それで……こうして、タイミングを見計らっていた――その横で、俺は延々と意味も分からず動揺しながら悶々としていたなんて、ほんと情けない。


「ありがとう、陸太」


 心のこもったそんな言葉が、今は胸にグサリと突き刺さる。「いや、俺は……何も」と口ごもりながら、視線を逸らしていた。

 実際、何もしてないからなぁ、と振り返る。瑠那ちゃんのために俺ができたことと言えば……絢瀬に瑠那ちゃんのことを話して、カブちゃんとの仲介役になってスケジュール調整をしたくらい。あとは、遊佐の不毛な特訓を眺め、最後は瑠那ちゃんにお説教されただけ。しかも、その助言を全く生かせていない有様で。こんな俺の体たらくを瑠那ちゃんが見たらなんと言うか。自然と頰が引きつり、重い溜息が漏れていた。

 そんな俺に香月が隣でクスリと笑う気配がして、


「そういえば」と話を切り替えるように明るく言った。「彰はどうだった? 滑れた?」

「アキラ……!?」


 ぎょっとして振り返る。

 誰だ、それ!? と言いそうになってしまったが。


「お前……なんで、まだそんなふうに呼んでんだよ?」つい、ジト目で見て責めるようにそう訊ねていた。「もうあいつと『親友』のふりなんてしなくていいだろ」

「なんでって……でも、『皆にはアキラと呼ばれて慣れ親しまれている』、て最初にLIMEで言われたから」

「誰も呼んでねぇし、慣れるどころか、皆、覚えてもいねぇよ! そんなふうに呼んでんのお前だけだからやめろ」


 かあっとムキになって、そんなことを捲し立てていた。

 って……なんで、俺は香月に怒鳴ってんの!?

 我に返って「あ……悪い」と身を引くと、香月はしばらくぽかんとしてから、


「んふ」と変な声を漏らし、急ににんまり笑った。「分かった。やめる……ね?」

「なんだ、その言い方? なんで……嬉しそうなんだよ?」

「なんでもねーよ」

「『ねーよ』……?」

「あ……間違った」ふふ、と笑って、香月は再びストローを咥えながら、うっすらと細めた目でこちらを見てきた。「で……どうだった? は?」

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