第8話 やめて

「な……んで?」と訊ねる声は頼りなく掠れ、見開いた瞳は戸惑いもあらわに揺れていた。


 その動揺が空気を通して伝わってくるようで――って、待て。なんで……て、こっちのセリフなんだが!?


「お前が言ったんだろ! み……耳元で囁け、て。だから、耳貸せ」

「ひ……や……ええ? にゃ……にゃにを言っとる……!?」

「は? なんて?」

「ちょっと……待って。だって……陸太はしないでしょ。そんなこと……」


 やれ、と言われたから、やる、と言ってるのに。言ってきた本人が、なぜかあたふたとし出して、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていくのがはっきりと見て取れた。

 なんなんだ、その反応は?

 そりゃあ……『わーい、やった〜!』みたいな反応を香月に期待していたわけではないけど。それでも、これは予想外すぎる。困っている……というか、もはや、嫌がってるような……? 明らかに、体が引き気味だし。


「しないでしょ、てなんだよ?」焦りのようなものを覚えて、俺は強張った声で訊ねていた。「お前が誘ってきた……ことだろ」


 すると、香月はハッとしてから顔を逸らし、「それは……」と口ごもりながら言った。「陸太は絶対しないと思ったから……」


「俺が絶対しないと思ったから……? だから、しろ、て言ったのか?」


 香月は顔を逸らしたまま、黙り込み……俺は暗闇に置き去りにでもされたような気分でぽかんと佇んだ。

 どういう……こと? 全く分からん。混乱してきた。

 ――確かに。瑠那ちゃんに何も言われてなかったら、まず間違いなく、『大好きだ、香月ちゃん』なんて恥ずかしいセリフを耳元で囁く……なんて羞恥プレイ紛いなこと、俺はしようとも思わなかっただろう。手も繋げていないような有様なんだし……そもそも、ガラじゃない。だから、香月が『絶対しない』と確信していたのも頷ける。だが……それじゃあ、なんで――て疑問が湧く。

 なんで、俺が『絶対しない』ようなことをわざわざ言ってきたんだ?

 

「もしかして……」と、自然と頰が引きつる。「あれも、ただの冗談……だったのか? 本気でそういうことをしてほしかったんじゃなくて……」


 からかっただけか――と続けるより先に、「そんなことない!」と香月は顔をこちらに向け直し、勢いよく言い放った。


「してほしい。そういうこと……すごく、してほしい」


 どこか切なげな、力のこもった眼差しで俺を見つめ、そう訴えかけてきた――かと思えば、香月はすぐにしゅんとして俯き、「でも……」と弱々しく呟いた。


「してほしいけど……させたくない」


 『してほしいけど、させたくない』?

 まるで言葉遊びのようなその台詞に、つい、首を傾げるようにして、香月の顔を覗き込んでいた。


「どういう……意味だ?」

「香月ちゃん――なんて、陸太がいきなり言うから……ワケ分かんなくなっちゃったんだ。舞い上がっちゃって……どんな顔したらいいかも分からなくて」俯きながら、香月は瞳をじんわり潤ませ始め、まるでいじけた子供みたいにぶつくさと言い訳がましく語り出した。「ごまかさなきゃ、て思って……気づいたら、いろいろ喋り出してて、変なことまで言っちゃってて……」


 変なことって……もしかしなくても、アレだよな。

 じゃあ、つまり……なんだ? さっきのは全部……あの香月の妙なノリは、はしゃいでいたわけでも、からかっていたわけでもなくて。


「だから……」と香月は俺に掴まれていないほうの手の甲を口許に当て、今にも泣き出しそうな張り詰めた声でぽつりと言う。「ごめん。ただの、照れ隠し……」

「照れ……隠し……?」


 香月が照れ隠し……?

 思わず、目をパチクリとさせてきょとんとしてしまった。まったく、しっくりこなくて……。

 だって、甘い言葉でさえ挨拶のようにすらりと言い退けるような奴だぞ。こんなに顔を赤くしてうろたえる姿だって、で――。

 そういえば……と、ふいにハッとして、俺は香月の顔をじっと観察するように見つめた。

 付き合ってから、はにかんだり、ムッとしたり、女の子らしい愛くるしい表情を見るようにはなったけど……は久しぶりだ。

 顔を真っ赤に染め、必死に何かに耐えているかのような――苦しげで、それでいて、恍惚としているような。そんな彼女の表情を見るのは、告ったあの日以来だった。

 見ているだけでぞわぞわと背筋が疼くような感覚があって……ごくりと生唾を飲み込みながらも、つい、その横顔に見惚れていた。

 そんな俺の視線に気づく余裕もないのだろう、香月は俯いたまま、「でも……」と吐息ともつかない頼りない声で続けた。


「そういうことをしてほしい、て思ってるのは本当。――ただ、もっとがいいんだ。陸太が……したい、て思ったときがいい」


 珍しく甘えるような声でそう言ったかと思えば、香月はちろりとこちらを見てきた。


「だから、今はやめて。こんなところじゃ……いや」


 その瞬間、俺は息を呑み、硬直した。

 鼓膜を擽ぐるような囁き声は、熱っぽくもか細く。じっと見つめてくる眼差しは、媚びるような卑しささえ漂わせ。そこに浮かぶ表情は見たこともないほどに艶かしくて……生々しいほどに扇情的だった。

 常に冷静沈着。いつも不敵に笑って、自信に満ちた眼差しを俺に向けてくる。気品に溢れ、爽やか、て言葉がよく似合う『王子様』。――記憶の中に残る、そんな人物像が粉々に打ち砕かれたようだった。

 愛おしさとはまた違う荒々しい感情が腹の底からこみ上げてくるのを感じて、ぐわっと身体が熱くなった。

 思わず、俺は掴んでいた腕を離し、


「ごめん……!」


 ワケも分からないまま、みっともなく調子の外れた声で謝っていた。

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