第7話 助言通り②

 かあっと顔が焼けるように熱くなって、途端に足が棒になったかのように動かなくなった。冷や汗のようなものが背筋を伝っていき、まるで判決を待つ罪人のような気分で固まっていると、


「え――」と香月はぴたりと立ち止まり、おもむろに振り返った。「今、なんて言った? ごめん、聞こえなかった」


 聞こえ……なかった?

 けろりと涼しげなその表情に、ああ、なんだ――と肩透かしを食らった気分でホッとしかけた……そのとき。


「もう一回言ってくれるかな」


 くるりと身を翻して俺に向かい合うなり、香月は神妙な面持ちでそう言ってきた。その口許はむずむずと落ち着かない様子で、今にも笑みをこぼしそうで――。


「お前……聞こえてただろ!」ハッとして確信するなり、俺は一歩退きながらがなり立てていた。「違うからな!? ちょっと……間違っただけだ! 瑠那ちゃんの言葉を思い出してたら、つい、口調が移ったっていうか……」

「他の女の子のこと考えてたんだ」


 途端にショックを受けた様子で表情を曇らせる香月に「な……!?」とすっとぼけた声が漏れていた。

 そこ……に、今、つっかかんの!? 


「違う……違うってか、そうだけど……そうじゃなくて……てか、瑠那ちゃん、小学生だろ!」


 あわてふためきしどろもどろになる俺に、香月はぷっと吹き出してクスクス笑い出した。


「ごめん、ごめん。冗談」

「いや……冗談にならねぇから……」


 ついさっき、典子さんの胸元をガン見していたことを指摘されたばかりだ。このタイミングでその冗談は酷なものがある。どっと疲れた気がする。

 それよりも……だ。


「やっぱ、聞こえてたんだよな?」


 ぼそっと訊ねると「ん?」と香月は怪しげに笑って見せる。


「何が?」

「何が……って、白々しすぎるわ」

「何のことか分からないなぁ」なんて『カヅキ』を思わせる澄ました顔で言って、香月はわざとらしく肩を竦めた。「もう一回、言ってくれたら思い出せるかも」

「なんだ、その理屈は!? もう言わねぇよ……!」

「なんで」

「なんでって……」


 そんなの、決まってんだろ。

 香月ちゃん――なんて。十年も一緒にいて、今まで一度だって呼んだことなかったんだ。『カヅキくん』か『カヅキ』としか呼んだことなくて。今更、ちゃん付けなんて……こそばゆいなんてもんじゃない。それこそ、全身、こねくり回されているような気分で身体中が落ち着かなくてゾワゾワしてくる。

 うっかりとはいえ。大声で、しかも、こんな人だかりの中で、『香月ちゃん』なんて呼んだかと思うと……思い出しただけで、さらに恥ずかしさが募って顔から湯気でも出そうだった。たまらず、香月から視線を逸らして口ごもっていると、


「恥ずかしいなら、耳元で囁いてくれてもいいんだよ」とこそっと香月が顔を寄せて言ってきた。「『大好きだよ、香月ちゃん』――て」


 何を……囁け、て!?

 ぎょっとして、「盛るな!」と声を張り上げてツッコンでいた。


「も……もっと恥ずかしいことになってんじゃねぇか!」

 

 すると、ふっと香月は不敵に笑い、「バレたか」なんて言ってひらりと踵を返す。そうして飄々と歩き出したその背中を、俺は愕然として見つめていた。

 バレた――とかじゃないだろ。なんなんだ、そのノリは? からかってくることは今までもあったけど。らしくない。さすがに悪ノリしすぎ、というか。浮ついている……ような。いや……はしゃぎすぎ――みたいな。

 そのとき、ふいにハッとした。

 もしかして……と思った。

 喜んでんのか? 俺に『香月ちゃん』って言われて? まさか、そんなことで……?

 分からない、けど。なんとなく……足取り軽く、鼻歌でも歌いそうに歩く背中はまるで子供みたいに無邪気に見えて。その向こうに浮かぶ表情が――嬉しそうに微笑むその顔がありありと頭に思い浮かぶようで。

 確信するしかなかった。俺には理解できないことではあるけど……『香月ちゃん』って俺に呼ばれることは香月にとってきっと特別なことで。香月の『幸せ』につながることなのかもしれない。

 それなら――やるしかないだろ、と思った。

 そうと決めたら、迷いは不思議となくて。

 威勢良く歩き出し、一度は開いたその距離をすばやく詰めると、俺は香月の腕を掴んで引き止め、


「分かった」と力強く言った。「耳貸せ」


 つんのめるようにして立ち止まり、弾かれたように振り返った香月は「へ――」と今までとは打って変わってぽかんと惚けた表情を浮かべていた。

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