第6話 助言通り①
そういうことにはならない……?
なんだ? なんの話だったんだ?
典子さんの様子から察するに、俺に聞かれたく無い話だということは分かる。樹さんのカノジョさんだし、妹である香月にしか言えないこともあるのだろうと思う。だから、別に目の前で内緒話をされようが、気にせず知らん顔してやりすごせた……はずだった。さっきの香月のあの眼差しさえなければ……。
あのチラ見。明らかに何かを言いたげな視線。絶対に――と確信してしまった。間違いなく、俺の話だろう、と。
そうなってくると、思い出されるのは『クソ野郎』という単語で……。
一度は度肝を抜かれた発言だが、あまりに典子さんが何事もなかったかのように香月と和気藹々(?)と話し始めるものだから、その衝撃がまるで幻だったかのように和らいでいき……かすかに聞こえた程度だったし――早とちりに関しては、俺にはとんでもない前科もあるし――俺の聞き間違いだったのかもしれない、とも思い始めていたんだが。
「とりあえず、伝えておきたかっただけ。あとはカヅちゃんの好きにして」
そう言って、ひらりと手を振り去っていく典子さんを見送る香月を横目に見ながら、俺は苦々しい気分で立っていた。
あれが聞き間違いじゃなかったとすれば――と考えずにはいられなかった。
典子さんに何かを言われ、不安げに俺を見つめてきた香月の様子がまざまざと脳裏に蘇り、ぞっと背筋が凍りついた。今にも『何を言われたんだ!?』と問い詰めたい衝動にかられる……が。もちろん、そんなことできるはずもないし、するつもりもない。
居心地の悪いうずうずとした気持ちを胸の奥に押し込めるようにして、ぐっと拳を握り締めた。
そのとき、
「さっきはごめん。我慢できなくて……。気まずくしちゃったよね」
典子さんが去っていく方を見つめたまま、香月がぽつりと言った。
気まずくした……? 我慢できなかった、て……なんのことだ?
思わぬ謝罪の言葉に戸惑いながらも「何のことだよ?」と訊き返す。
すると香月はふうっとため息吐いて、飾り気なんてカケラもない、まるで無防備な力無い笑みを浮かべ、
「嫉妬しちゃった」
開き直ったようにあっけらかんと言った。
俺は一瞬、ぽかんとして――、
「嫉妬!?」とぎょっとして裏返った声を上げていた。「なんで……」
「なんでって――」
答えながら、香月はジト目で俺を見てきて、少しムッとしたように言う。
「陸太は陸太で……見過ぎ」
見過ぎ――と言われて、ギクリとした時点でアウトなんだろう。
そこまで見てない……と言いたいのは山々だが。たった一瞬とはいえ、はっきりと頭の中にその画が――襟元から溢れそうなふっくらとした膨らみと、その間に覗く谷間の影が――浮かび上がってしまうほどには、典子さんの胸元をしっかりと見てしまったことは確かで。
こみ上げてくる後ろめたさが、もはや自白しているようなものだった。
こういうとき、カレシというものはどう謝ったらいいのかもよく分からなかったが……俺がぐちゃぐちゃと考えたところでロクなことにならないのはよく分かる。顔を引き締め、「ごめん」と潔く謝ると、香月はクスリと悪戯っぽく笑った。
「責めるつもりはないんだ。一応、男兄弟の中で育ってきたし、『男』だった時期もあるから。いろいろと聞いてきて、男の子はそういうものだ、て分かってる」そこまで言って、香月はふいに気まずそうに視線を落とした。「その点は、私じゃ……申し訳ないな、て思ってるくらいで」
「申し訳ない……?」
「ああ、うん……まあ」
はは、と乾いた笑いを漏らして曖昧にごまかすと、香月は気を取り直すように咳払いして俺を見つめ、
「だからね……嬉しいとも思うんだ。陸太が女の人とちゃんと向き合えるようになって、そういう下心も生まれるくらい余裕ができて……良かったな、て思う」
短くなった前髪の下、喜びが溢れ出そうなほどにうっとりと目を細め、さらりとそんなことを言う香月に……ああ、もう『クソ野郎』でもなんでもいいや、と思ってしまった。投げやりになったわけではなく。冷静になれたんだ。
典子さんが香月になんと言ったかなんてどうでも良くて。たとえ、仮にもし典子さんに『クソ野郎』と思われていたとしても、だ。そんなことより、大事なのは香月で。ここまで俺を真っ直ぐに想ってくれる香月の気持ちを信じることのほうが大事なんだ、て思い出せた。
ぐっと熱いものがこみ上げてくる感じがして……ありがとう、なんて言葉が薄っぺらく感じるほどに香月の想いが尊く思えて。――やっぱり、なんて言えばいいのか分からなくなる。
そうして固まる俺の言葉を待つこともなく、香月は「でも」と続けてぎこちなく苦笑した。
「やっぱり、慣れないんだ。他の女の子を見つめる陸太を見るのは慣れなくて……イヤだな、て思っちゃう。やっとカノジョになれたのに……なんでだろう。前よりずっと不安なんだ」
途中からまるで独り言のようにぼんやり言って、香月は「典子さんの言う通り……ほんと余裕ないね」と自嘲気味に呟いた。
情けなさと不甲斐なさが一緒くたになって襲ってきて。自分自身に腹が立って、腹わたが煮えくり変えるようだった。
なんでだろう――と香月が口にしたその問いの答えを、俺はもう分かっている。香月に寂しい思いをさせてしまっているのも、こうして香月を不安にさせているのも、俺がこんなんだからだ……。
「せっかくのデートなのにごめんね。変な話した」と香月は慌てたようにこちらに振り返って、なんでもないかのように笑って見せた。「こんなとこで立ち話してても邪魔だよね。映画まで少し時間あるけど……とりあえず、映画館行こっか。瑠那ちゃんのこともゆっくり聞きたいんだ」
ちらりと腕時計を見やってさっさと歩き出した香月の背中を見つめながら、そうなんだよ……と心の中で語りかけていた。
――今日さ、瑠那ちゃんにお灸を据えられたんだ。香月ちゃんのことを好きなら、もっと香月ちゃんのこと考えてあげなきゃだめだ、て。香月ちゃんにシアワセになってほしいから香月ちゃんをよろしくね、て。それで、約束したんだ。これからはもっとちゃんとお前のことを考える、て。お前の『幸せ』のことを……。
だから……と深く息を吐き、俺は威勢良く一歩踏み出した。
さりげなく、とか格好つけようとするからできないんだ。もういっそのこと、『手を繋ぎたいので待ってください』とでも言ってしまえばいい。
今度こそ、と意気込み、香月の背中を追いながら、頭の中では『香月ちゃんを……』『香月ちゃんに……』と瑠那ちゃんの助言が天使の囁きのごとく何度も響き渡っていた。そうして瑠那ちゃんの言葉に後押しされるようにして意を決して口を開き、
「あのさ、香月ちゃん――!」
呼び止め、すぐにハッとした。
あれ。なんだ、この違和感? この口に全く馴染まない感じは……なんだ?
今……俺、なんて呼んだ……?
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