第5話 囁き
次の瞬間、ぐいっと袖を後ろへ引っ張られ、うお、とバランスを崩してよたついた。思わず一歩下がったその隙に、するりと人影が視界に滑り込む。
ほんのりと甘く香る風がふわりと鼻先をかすめた。
あ――と思ったときには、もうそこに典子さんの姿はなく。あったのは、後ろ姿だった。
うなじにかかる艶やかな黒髪。白く滑らかな首筋から肩へと流れる線は柔らかなカーブを描き、ぴんと伸ばした背筋は凛々しくもか細く見えた。その後ろ姿は堂々として頼もしく……それでいて、ぞくりとするほど華奢だった。
よく知っているようで知らないような。懐かしくも新鮮な、香月の背中だった。
「近すぎ!」
まるで俺をかばうように背にして典子さんに向かい合い、香月はぴしゃりと叱りつけるような声を響かせた。すると、すぐさま、「あら」とのんびりとした典子さんの声が聞こえてきて、
「せっかくカヅちゃんのカレシくんに会えたからよく見てみたかったの」
「見過ぎです」
「そう? でも……おかげでカレシくんのことがちょっと分かった気がするわ。なんだか、こねくり回したくなる子ね」
「こね……!?」
つい、素っ頓狂な声が飛び出していた。
なんて……!? こねくり回すって……なに、その第一印象!?
思いっきり動揺する俺をよそに、「こねくり回さないでください」と香月はいたって冷静に返し、
「陸太も――」とこちらに振り返って、きっと鋭く細めた目で睨みつけてきた。「私以外に、あんな顔見せちゃダメ」
「は……」
あんな顔って……? なんだ? いつの顔……!?
反射的に顔を引き締めたものの……分からん。
「ど……どんな顔だよ?」
戸惑いつつも訊ねれば、香月は困ったように眉を曇らせ――、
「こねくり回したくなるような顔よ」
「典子さん!」助け舟に見せかけた黒船のような。典子さんのまさに余計な一言に、香月はばっと勢いよく顔を前に向き直した。「陸太にそういうこと言わないで!」
「ムキになって珍しいわね、カヅちゃん。余裕がないのかしら。欲求不満? 今度、いいものあげ――」
「いりません!」わあ、と慌てたように香月は声を上げ、「そんなことより……典子さん、樹兄ちゃんに会いに来たんですよね? 早く行かなくていいんですか? お昼に典子さんの手料理が食べれるんだ、てお兄ちゃん、朝から何も食べずに待ってますよ」
「そう……相変わらず、愛おしいほどバカね。このまま放っといたらどうなるのかしら?」
「ずっと何も食べずに待ちますよ」呆れたように言って、香月は典子さんの背後へと回った。「だから……もう早く行ってください! 夕飯までには私も帰るから。あとは家で話しましょう!」
典子さんの背中を押して、追い出……送り出そうとする香月だったが、典子さんは牛歩のごとく進むだけ。そうして、ゆったりとした歩みで俺の横を通り過ぎようかというとき、「夕飯まで……」とぼんやりとした声で呟いてちらりと俺を見てきた。
「そうよね。高校生……だものね」
納得したようにこぼした言葉が、果たして独り言だったのか、俺へ向けたものだったのか。判断つかずにぽかんとしている間に、
「そうだ、カヅちゃん」
急に何か思い立ったかのようにぴたりと立ち止まり、典子さんはくるりと半転。何事か、と構える香月にそっと顔を寄せ――きっと、二言、三言だろう――短く何かをこそっと囁きかけた。何の話だったのかは全くもって俺には分からないが……やがて、典子さんがすっと離れると、香月は唖然としたように典子さんを見て――それから俺を見てきた。
どこか後ろめたそうな……そんな眼差しで。
ざわっと胸騒ぎがして「どうした?」と訊ねようとしたとき、
「大丈夫です」と香月はついっと視線を典子さんに戻して、今や懐かしく思える涼しげな笑みを浮かべて首を横に振った。「そういうことには……ならないと思うんで」
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