第4話 呟き
弾かれたように香月が振り返り、俺の左手は空気を掴んで、まさになんの手応えもなく宙を彷徨う。
うがあ……!? と思わず、叫びそうになった。
とことん……とことん、タイミングが合わない! なんなんだ? なんで、こんなに難しいんだ? 俺が下手なだけなのか!?
恨みがましく自分の左手をちらりと見てから、ふうっと気を取り直すように息を吐く。まあ三度目の正直、とも言うし、次の機会に賭けるとして……なんて我ながら惨めな慰めだけど。
とりあえず、今は――と、俺も声のしたほうを振り返ると、
「こんにちは」と朗らかに微笑む女性がいた。「奇遇ね」
足首まで隠れるベージュのロングワンピースに、腕には麦わら帽子を思わせる素材の夏らしく涼しげな籠バッグ。センターに分けた長い黒髪は胸元まであって、ふっくらとした膨らみに乗って毛先の方だけカーブを描いている。少し垂れたとろんと眠そうな目元に、左目の下には儚げな涙ボクロ。艶やかな桃色の唇はほのかに色気を漂わせ、その表情はぼうっとしているようで何か企んでいるような……どこか謎めいた魅力を放っていた。
妖艶――という言葉がよく当てはまる人だった。
「典子さん」
呆然としていた香月がぽつりと言って、つられたように「のりこさん?」と口にしていた。すると、香月は思い出したようにハッとして俺に振り返り、
「樹兄ちゃんのカノジョさん。前話したよね。大学で映像サークルに入っているカノジョがいるって……」
「ああ……全身タイツの……!」
忘れられるはずもない。全身タイツというインパクトたっぷりの単語を……。
合コンの帰りに二人でカフェに寄ったときだったか。樹さんのカノジョさんの話になった。大学で映像サークルに入っていて、樹さんもよく撮影に協力しているとかで。カノジョさんのためなら、どんな役でもこなすらしい樹さんは、あの日も宇宙人役で全身タイツで出かけていった――んだったよな。
そっか、この人が……と視線を戻すと、典子さんはモナリザのごとき穏やかな微笑を浮かべて俺をじっと見つめていた。
「カヅちゃんが連れてる男の子……てことは、君が例のカレシくん?」
香月のカレシか、と聞かれるのは今日でもう二度目だが。やはり、その響きはまだ慣れなくて。気恥ずかしいような、嬉しいような……。口元がむずむずとしてくる。それをごまかすように顔を引き締め、「笠原です」と名乗ろうとしたとき、
「ふーん」と意味ありげな声を漏らしながら、典子さんはツカツカと歩み寄ってきて、「へえ、そう……君が……」
ぼんやりとした眼差しながら、興味深そうにまじまじと見つめてくる典子さん。俺はぎくりとして固まった。
もはや、初対面の距離ではなかった。
ふわりとそよ風のごとく。あまりに自然にさりげなく。ロングワンピースの長い裾をひらりとなびかせ、典子さんはあっという間に俺の懐に入り込んでいた。
近くない!? と気づいたときには、そのぼうっとして眠そうにも見える顔は目の前にあって。澄んだ瞳が水晶のように自分の顔を映し出すのが見えるようだった。
俺より少し背が低く、見上げるようにして俺を見つめる典子さんを見つめ返そうとすると、つい、襟元から覗く胸元が視界に入ってしまって……。白い肌に落ちる谷間の影に、ぞくりと背筋が疼くのはもうどうしようもなく、まずい――と、咄嗟に視線を逸らした。
そのとき、
「別に、そこまで『クソ野郎』には見えないけど……」
ほんのかすかに。喧騒の中、俺にしか聞こえないほどの小さな声で呟かれたその言葉に、邪な気持ちも一気に吹き飛んだ。
え……今、なんて……?
ぎょっとして視線を戻し、「今、クソ野郎って――!?」と慌てて聞き返そうとした俺の声を、「典子さん!」と香月の鋭い声が遮った。
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