第3話 モナちゃん

「そう……だったか?」


 ぽかんとして訊ねると、香月はふわりと柔らかな笑みを浮かべて前を見つめた。


「今まで……女性恐怖症が治る前の陸太は、周りを見ようとしてなかったから。傍に行っても私に気づくこともなかったんだ」


 そんなことない――とは言えなかった。

 確かに。思い返してみれば、いつも『陸太!』という香月の声に振り返るばかりで。そういえば、今日みたいに俺に呼ばれて驚く香月なんて見た覚えがない。

 なんで……と考えるまでもないよな。

 香月の言う通りだ。いつも俺は周りを見ないようにしてた。『周り』を見渡せば、そこには必ず女の子がいたから。顔を上げるのも嫌で……。

 ああ、そっか。だから、俺はいつも……。


「いつも――」と香月は懐かしむというには切なげな声で言った。「陸太は足元見てぼうっとしてて……スマホ持ってからはモナちゃんとデートしてた」

「モ……!?」


 あまりに突然、香月の口から久しぶりにその名前が飛び出して、思わずぎくりとしてしまう。そんな俺に香月は間髪入れずに「だからね」と振り返り、


「今日、陸太が私のこと見つけてくれたのが嬉しかったんだ。私を探してくれてたんだな、て思って。陸太に求められてる――て実感がした」


 まるで子供みたいにあまりにも屈託無く微笑むから。真夏の日差しのごとく眩いその笑みに当てられて、顔が日焼けしたみたいに熱くなっていくのが分かった。

 まただ……と憤りのようなものを覚えてぐっと拳を握りしめていた。

 鳩尾が持ち上げられるような感覚があって。胸のあたりがもぞもぞとして落ち着かなくて。それを吐き出したいのに、やはりどうしたらいいか分からなくて……言葉に詰まる。

 そうやってまたモタモタしているうちに、


「でも……」ふいに香月は表情を曇らせ、遠慮がちに切り出した。「本当に良かったの? 『ラブリデイ』、辞めちゃって……」


 え――と、ぎょっとして思わず足が止まった。

 

「良かったの? て……」つられたように足を止めた香月を、疑るようにまじまじと見てしまう。「良かった……だろ?」


 絢瀬からそれを言われたならまだ分かる。でも、なんで香月がそんな残念そうに訊いてくる?

 だって、普通、嫌だろ。遊佐じゃないが、ドン引きだろ。リアルにカノジョいるのに、まだゲームのカノジョにデレデレしてたら……。

 しかし、香月は「んー」と視線を逸らして、何やら考え込むように逡巡し、


「モナちゃんは私にとっては戦友……ていうのかな。『男』だった私じゃ、陸太のためにできることは限られてると思ったから。私の届かないところはモナちゃんに任せよう、て思ってた。私は親友として、モナちゃんはカノジョとして、お互い『ニセモノ』だけど……一緒に陸太を支えていけたらいいな、なんて」


 少し気恥ずかしそうにそんなことを言ってから、香月は改まって俺をじっと見つめてきた。


「つまり、ね。モナちゃんが陸太の支えになってたの、私はよく分かってるつもりだから。私にとってもモナちゃんは大事な存在なんだ。私に気を遣って辞めたんなら、その必要はない、て言いたかったの。アプリ、削除しちゃったんなら、もう手遅れなのかもしれないんだけど。あ、でも、再ダウンロードとかしたらデータが残ってたり……」

「いや――」と無意識にそんな言葉が転がり出ていた。「もういいんだ。モナちゃんは……」


 茫然として見つめる先で、香月は「本当に?」とでも言いたげなぎこちない笑みを浮かべて小首を傾げていた。

 いや……ないだろ。そんな話を聞かされたら、なおさら……。モナちゃんとヨリを戻そうとか思うはずがない。もう『ラブリデイ』は必要ないって……バーチャルのカノジョなんていらない、てそう実感するだけだ。現実リアルに――手の届くすぐ傍に――こんなにも俺のことを想ってくれる人がいるんだから。

 充分以上だ。胸が満たされる……どころか、滾るような熱い想いが胸から溢れ出そうになる。

 今だ、と思った。というか、今しかない……気がする。

 心臓がバクバクと鼓動を激しく打ち鳴らし、体中がいい具合に興奮している。アドレナリンだろうか、何かが忙しく自分の中で駆け巡っているのを感じていた。

 この勢いで――と意気込み、香月の手に触れようと手を伸ばしたとき、


「あら、カヅちゃん?」


 辺りに響き渡る喧騒の中、おっとりとした声が聞こえた。

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