第4話 氷上④

 一方で――だ。


「ウチは、父親は大体いつも帰りは遅いし、母親もパートがあるときは帰りは八時過ぎだし……まあ、送り迎えを頼める感じじゃないわ。そもそも、防具とかスケート靴とか一式揃え直さなきゃいけないし。そんな余裕もウチにはねぇよ」


 肩を竦めて軽い調子でそう言いながら、それに――と心の中で付け足していた。

 小学校のときだって、母親はパートをしていた。それでも、うまくホッケーのスケジュールに合わせてシフトを調整して、週三で送り迎えをしてくれていた。どんなに帰りが夜遅くても、練習の次の日も欠かさず朝飯用意して学校に送り出してくれて……あのときは、それを当然のように思っていたけど、今はそれがどれほど大変なことだったのか少しくらいは分かるようになったつもりだ。

 それだけのことを五年半もしてもらっておきながら、俺は相談もせず、理由も話さず、ある日突然、ぽいっと放り出すようにクラブを辞めた。それで、どのツラ下げて――と自分でも思ってしまうんだから、親はもっとだろう。

 とてもじゃないが、また何万もするスケート靴やら防具を買い直してもらって、送り迎えを頼もうなんていう気にはなれない。


「まあ、家計はそれぞれだもんな」


 思ったより真面目な話になって、興味を無くしたのか、気まずくなったのか、遊佐は手すりに顎を乗せるようにして、どこか上の空でそんなことを呟いていた。

 視界の端では、絢瀬がきゅっと唇を引き結び、切なげにこちらを見ているのが分かった。その眼差しには明らかに同情と言うべき憐れみが滲んでいて……騙しているような気分になって、俺は慌てて「家計の問題だけでもないけどな」と付け加えるように続けた。


「結局のところ、こうして『できない』理由ばかり挙げてる時点で、俺にはそこまでやる気がないんだと思う。本気でホッケーやりたい、と思ったら、親を必死に説得しようと思うだろうし、防具だって中古で安いのを探すことだってできる。でも……そんな気持ちにはならないんだ」


 こうしてリンクに立っても、香月みたいにホッケーがやりたくてたまらなくなる――なんてことはなくて。それが揺るがぬ証拠だと思った。


「ホッケーを嫌いになったわけでも無いし、興味がないわけでもない。いつか、またやりたい、て気持ちはある。ただ――」

「今じゃない……て感じなんですね?」


 リンクを眺めながら独り言のように呟いていた俺の言葉に、絢瀬の声が続いた。

 ハッとして見やれば、さっきとは違い、絢瀬はどこか安堵したような朗らかな笑みを浮かべて俺を見上げていた。


「もしまたホッケー始めたら、教えてください。私、ぜったい見に行きます!」


 溌剌と弾んだ声で、ぱあっと晴れやかにそう言われてしまうと……「いつになるか分からない」とか「本当に始めるか分からない」とか、そんな不確かなこともどうでもよく思えてしまって。「ああ」と観念したように微苦笑して答えていた。


「それまでは、香月先輩の応援、一緒にがんばりましょうね」


 両手の拳をぎゅっと握りしめ、鼻息荒く言う絢瀬。もちろん、これにも「ああ」と答えたいところだったが……。

 途端に居心地の悪さに襲われ、笑みが引きつる。

 デジャブだろうか。さっきも同じようなことがあったような気がする。


「出禁が……解けたらな」


 ぼそっと言うと、「あ」と絢瀬が惚けた声を漏らした。


「結局、そこに戻るわけだ」と、待ってました、と言わんばかりの遊佐の高笑いが辺りに響き渡り、「いっそのこと、これから香月ちゃんに直接、理由を聞こうぜ」


 相変わらずのへっぴり腰で手すりにしがみつきながらも得意げにそう言い放った遊佐に、「え?」と俺と絢瀬の声が重なった。


「香月お姉さま先輩、これから来るんですか!?」

「香月お姉さま先輩……は来ないけども!? てか、なんなんだ、その呼び方は?」

「はあ!? 香月ちゃん、来ないの!?」

「来ねぇよ!」


 忙しなく絢瀬と遊佐に交互に答えてから、ふいにハッとする。

 なんだ、遊佐のその驚きようは……?

 まさか、何か裏工作でもしてこっそり呼び出してんじゃないだろうな……とつい、辺りを警戒してしまう――が、まあ、別に何もやましいこともないし、来てても何の問題もないというか……嬉しいくらいなんだが。

 しかし、若干そわそわする俺をよそに、遊佐は心底納得いかない様子で俺を疑るように睨みつけていた。


「今日、このあと、デートだ、て言ってただろ」

「このあと、な? 香月は今、夏期講習で学校だよ」

「えー……」


 さあっと遊佐の表情が落胆に染まっていくのがはっきりと見て取れた。

 そんなに……期待してたのか? てか、人のカノジョに何を期待してたんだ?


「私じゃ不満ですか、遊佐先輩? スケートだけなら、私、香月先輩にも負けないと思いますけど」


 腰に手をあてがい――おそらく、遊佐をからかっているだけだろう――わざとらしくムッとして言う絢瀬に、遊佐は慌てて「いや、滅相もない!」と言って、必死な形相で俺を見てきた。


「笠原! お前だぞ!」

「何が俺だ!?」

「ここに来る前に、もう一人、助っ人が来る、て言ってたじゃねぇか!」

「ああ――」


 それで……とようやく、合点がいった。

 確かに、『このあと香月とデートだ』と話しておいて、『もう一人、助っ人が来る』と言えば、そんな誤解も生まれるか。


「いや、助っ人は香月じゃなくて……」


 言いかけたとき、


「陸太!」


 そう呼ぶ野太い声が辺りに響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る