第11話 カレシ

 香月は黙り込んだまま、振り返ろうともしなかった。ぴくりともせず扉に向かって佇むその華奢な背中を見つめて、俺はぼんやり思い出していた。

 颯爽とリンクを駆け、どんな相手でも物怖じせずにタックルかます、頼もしいうちのエース。その背中に……かつて、俺は憧れを抱いたんだ。心の底からカッコいい、と思って見惚れたことがあった。まさに、『王子様』だな、て思って――。

 ぐっと胸の奥からこみ上げてくるものがあって。無意識に、「そういやさ……」と俺は口を開いていた。


「小六んとき、お前、俺のためにファウルしてくれたことあったよな。俺が相手チームの奴に反則やられて転ばされて……お前、キレてそいつにタックルかましてペナルティ食らって退場になったんだよな」


 今でもはっきりと覚えている。

 相手チームの奴に姑息な反則を続けられて、それでもレフェリーは気づいてくれなくて。悔しくて、腹立たしくて……とうとう転ばされて、惨めな気分で冷たい氷の上に這いつくばった。でも、結局堪えるしかなくて。屈辱と痛みに耐えながら起き上がろうとしたとき、目の前でそいつがリンクに叩きつけられたんだ。

 え――と顔を上げれば、そいつを見下ろして静かに佇む背中があって……。


「あのとき、お前の背中を、カッコいいな、て思ったんだ。俺が女だったら惚れてんだろうな、て思って――」


 そこまで言って、俺ははたりと言葉を切った。

 目から鱗が落ちる……という感覚を体感したようだった。その瞬間、ぽろりと何かが落ちたようで。一気に視界も思考もクリアになったような、そんな爽快感さえあった。そうして、見開いた目で香月の背中を見つめ、「ああ、そっか」と降参するように呟いていた。


「結局、女だったんだから……そりゃ惚れるよな」


 彫刻のように固まっていたその背中が、びくん、と震えた。

 しかし……それでも、香月は何も言わず振り返ろうとしなかった。

 確実に聞こえていたはず。それは確かなのに……なんでだ? なぜ、無視……?

 結構、恥ずかしいことを言った自覚もあるし、ここまでずっとだんまりを決め込まれるとさすがに不安になってきて……「おい、香月?」とそろりと近づき、前へと回って顔を覗き込み――、


「え……」


 思わず、そんな惚けた声が漏れていた。

 そこにあったのは、トマトの如く真っ赤に染まった顔で。どうしたらいいか分からない、とでも言いたげな戸惑う表情を浮かべて、香月は俯いていた。心許なく揺れる瞳には涙が浮かび、その視線はおどおどと足元を彷徨っている。悩ましげに眉をひそめ、何かに耐えるように唇をきゅっと引き結び……それは今まで見たどんな表情よりも幼く見えた。

 なんだよ、その顔は――とぎょっとして……ふいに、気づいた。

 もしかして……とおずおずとその顔を訝しく覗き込み、


「お前――照れてんの?」


 ずばり訊ねると、香月はハッとして顔を上げた。

 俺を見つめてくるその表情は、まるでイタズラでも見つかった子供みたいな――それはだらしなく、締りのない、間の抜けた顔で。カッコ良さのカケラもなく、つい、吹き出してしまった。

 それで、なるほど、と納得していた。

 この前……合コンの帰りに、「照れてる、照れてる」と俺の顔を見て大喜びしていた香月の気持ちが分かってしまって。


「本当だな」と今さら仕返しでもするようににんまり笑って、俺は意地悪く言い放った。「照れてる顔って、可愛いんだな」


 その途端、より一層香月の顔が赤くなり、俺を見つめる眼差しにもじわじわと熱が帯びていくのが分かった。途端に、困り果てていたような表情が、何かを求めるような……そんな切なげものへと変わって、ぎくりとした。

 いや、これは……可愛いというより――。

 激しい衝動が腹の底から湧き上がってくるのを感じて、まずい、と思った。本能的に身を引こうとしたとき、どん、とタックルでもかます勢いで香月が抱きついてきて、


「ぬあ……!?」と変な声を出してよたついた。「なんだ……いきなり……!?」

「陸太のせいだ」


 ぎゅっと俺の首に腕を巻きつけてきて、香月は耳元でいじけたような声で言う。


「陸太が悪い」

「な……何がだ!?」

「そんなこと言われたら……我慢できなくなる。こっちは爆発しそうなのにどうするんだ」

「いや……だから……何が爆発するんだ!? 怖いわ!」


 いきなり抱きつかれて、しかも、ハグなんて言葉が生易しく感じられるほどに身体を密着させられて、平常心でいられるわけがない。頭の中はすっかりパニクり、身体は金縛りにでもあったように硬直して棒立ち状態。手だけが行き場に困ってあたふたと宙を彷徨っていた。

 さっき頰に感じたひんやりとした体温はなんだったのか、と思ってしまうほどぴたりと張り付く香月の身体は暖かく感じて。服を通して伝わってくるその熱がじわじわと身体を溶かしていくようだった。

 ふわりと頰をくすぐる艶やかな髪に、全身を包み込むような甘い香り。首筋には乱れた息遣いを感じ、ぴたりと合わさった胸元からは激しく脈打つ香月の鼓動が伝わってきて……その刺激に今にも脳が蕩けてしまいそうだった。

 付き合うことになったとはいえ、いきなりキスにこの密着は……俺には早すぎる。まだ手も繋いでいないのに。準備運動もなしで、ルールも知らずに試合に出されたようなもんだ。

 ああ、そろそろぶっ倒れるんじゃないかな、なんて思い始めたときだった。

 ふいに、香月が俺の肩に顔を埋め、「大好き」とくぐもった声で言うのが聞こえた。

 あまりにいきなりで。きょとんとする俺に「陸太、大好き」ともう一度、香月は囁き、俺の首に回した腕をさらにきつく絞めつけてきた。

 そして――。


「絶対、大事にするから」


 ハッとして息を呑む俺の耳元で、やがて嗚咽が漏れ始め……香月は静かに泣き始めた。

 一気に冷静になって、全身から力が抜けていった。

 さっきまで荒波のように身体の中で渦巻いていた興奮は鎮まり、代わりに狂おしいほどの愛おしさがこみ上げてきて、手が自然とその背に伸びていた。


「だから、お前は……」震えるその背中にそっと腕を回し、俺は香月のか細い身体をぎゅっと抱き締めた。「そういうことを――先に言うなよ」


 かつて憧れたその背中は、あまりにも柔で華奢で……抱きしめるその力に躊躇うほどで。その感触を噛み締めるように抱きしめながら考えていた。これからのこと――。


 『カレシ』というものがどうあるべきなのか、俺には正直よく分からない。デートなんてゲームでしかやったことないし、付き合い始めてから何をどうしていけばいいのか、作法も順序もさっぱりだ。イメージも付いていない。無知と言っていいくらいだと思う。

 ただ、『傍にいるだけ』はもう厭だ、てそれだけははっきりしていた。

 今まで香月が俺にそうしてくれたように、今度は俺が香月を支えたい――と、今、俺に分かるのはそれくらいで。これから俺たちの関係がどうなっていくのか想像もつかないくらいだけど、とりあえず――。


「陸太! 肉まん! 聞こえてるなら、返事くらいしなさい」


 再び、肉まんコールがリビングのほうから聞こえてきて、俺は思わず、苦笑していた。


「まあ、とりあえず……肉まん食べるか」


 ため息交じりにそう言うと、耳元で香月がクスリと笑う気配がして、「やっとだね」と冗談っぽく囁くのが聞こえた。

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