九章

第1話 氷上①

 久しぶりに立ったリンクはずっと狭く感じた。

 息を吸うと肺に入り込んでくる冷気も、氷の上を滑るブレードの感覚も、あの頃と何も変わってない気がするのに。

 当時よりもずっと高い位置から見渡すリンクは、記憶のそれとはまるで別物みたいに思えた。

 リンクに足を踏み入れるなり、止まっていた時間が一気に押し寄せて来るような……そんな感覚があって。感慨の一言では足りないような、戦慄とでも呼ぶべき衝撃が全身を駆け抜けた。

 気づけば、リンクの入り口からほんの一メートルほどのところで、ぴたりと立ち止まっていた。

 そうして、ただリンクを眺めた。

 夏休みだからだろう、小学生らしき姿が多く見られた。何度もけては楽しげに笑い合う子供達の中で、ちらほらとカップルらしき二人組も手を繋いで滑っている。そんな景色に重なるように、かつて見ていた光景が幻のように目の前に浮かび上がって来るようで……懐かしいというよりは恋しいような、切ない思いに駆られた。

 たとえ同じ氷の上に立っても、あの頃に戻れるわけではないんだな、と当然のことをしみじみと実感してしまって……取り戻せない時間の重みに圧倒されるようだった。

 二ヶ月前、ハーデスの氷上練習を観に来たとき、香月もこんな気分になったんだろうか、とぼんやり思った。


「どうですか? 久しぶりに滑った感じは?」


 ふいに、背後からそんな声がして、俺はハッと我に返って振り返る。


「ああ。まあ……なんとか。転けずには済みそうだわ」


 冗談っぽくそう答えると、


「それは良かった。やっぱり、身体はちゃんと覚えてるものですね」


 前髪を全部ピンで止めてあらわになった額。頭の高い位置でくくったポニーテール。体にぴったりと張りつくようなタイトなジャケットに、下は真っ黒のレギンス。あの頃と何も変わらないようなそんな格好で、絢瀬は入り口からふわりと氷の上に降り立った。

 ブレードが氷に触れるや、すいっと軽やかに滑り出し、ポニーテールをなびかせながら悠然と近づいて来る様は、まるで飛んでいるかのように優雅で。心なしか、絢瀬が滑ると氷も一段と輝きを増して見える気がする。まさに『氷の妖精』だな、なんて思ってしまった。


「滑るの、ホッケー辞めて以来なんでしたっけ?」


 俺の隣でぴたりと止まると、絢瀬はポニーテールを弾ませながら小首を傾げて訊いてきた。

 その話題になるとどうしても気まずさがつきまとう。俺はふいっと絢瀬から視線を逸らして、「ソーダナ」とぎこちなく返していた。


「私も実は久しぶりなんですよね。ここで滑るの」


 懐かしむように言って、絢瀬はしばらく間を置いた。ちらりと横目で様子を伺えば、絢瀬はどこか切なげな眼差しを浮かべてリンクを見渡していた。


「良かったです」ふいに絢瀬はつぶやくように言い、俺に視線を戻す。「理由はどうあれ……先輩とこうして滑れて。念願叶いました」

「え……ああ」


 藪から棒に、そんなことを言われてしまうと……そこになんの他意もないことを分かっていても、どうしてもぎくりとしてしまう。

 あの頃、お互い、好き同士だった――と知ってから、こうして隣り合ってリンクに立つというのはなかなか気恥ずかしいものがある。

 つい、視線が泳いで、顔が強張ってしまった。


「初めてのダブルデートでスケート誘ったときは、逃げられちゃいましたからね」

「に……逃げたわけじゃ……」

「逃げました」


 慌てて弁解しようとする俺の言葉を、絢瀬はムッとしてにべもなく跳ね除けた。

 そこまで断言されてしまうと否定する気も失せるというか。これ以上、何を言っても、もはや言い訳がましくてみっともない気がしてきて俺は閉口した。

 あのとき……初めて、絢瀬にダブルデートに誘われ、ここ――須加寺アイスアリーナに来たとき、俺は結局、建物の中に足を踏み入れることさえできなかった。決して、絢瀬から逃げたわけではなく……この氷の上に立つ資格は、そのときの自分には無い気がしたんだ。その前にやらなきゃいけないことがあると思って……俺は絢瀬と別れて、まっすぐに香月の学校へと向かった。そこで香月に言ったんだ。――初めて話したときからやり直そう、て。

 あれからいろいろあったな、と照れ臭くなりながら思い返していると、


「そういえば」と急に絢瀬が声を低くし、不穏な空気を漂わせて切り出した。「香月先輩からLIMEで聞きましたよ」

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