第9話 はにゃ

 その瞬間、唇に残されたその余韻がじわりと疼くようだった。

 背筋にぞくりと悪寒のようなものが走り、たちまち激しく燃え盛るような昂りを鳩尾の奥に感じた。純粋な悦び――とはまた違う、良からぬ期待が腹の底から込み上げてくるのが分かって……ようやく実感した気がした。俺は香月とキスをしたんだ、と。たった今、『親友カヅキ』との関係は完全に終わったんだ、と。

 そうだ――と、改めて覚悟を決めるように心の中で呟く。

 香月の言う通り、もう戻れない。一線を越えたここから先は、進むか終わるだけ。

 もちろん、終わらせる気なんてさらさらない。

 俺は香月とこれから――と、意気込みながら力強く見つめた先で、香月は俺の頰を両手で包み込んだまま、


「陸太の顔、すごく熱い」


 クスリと妖しく笑ませた唇で、そんなことを囁いてきた。

 びりっと全身に電流でも流されたようだった。たった今、決意を胸に気を引き締めた……ところだったのに。途端に心がかき乱され、一瞬にして平静を失って、「お……お前な……」と俺は慌てふためいていた。


「そ……そういうことを、嬉しそうに言うな!」とせめてもの負け惜しみで文句を言うが、「ごめん」とまるで悪びれた様子もなく香月はけろりと返してくる。そして、ほんのりと頰を紅潮させながら、噛みしめるように呟いた。


「でも――嬉しいんだもん」


 な……!? と言い返そうとした言葉が詰まる。

 開いた口が塞がらない、とはこのことか。

 あまりにも素直な言葉に、戦意喪失というか……何も言えなくなってしまった。もはや照れる気力も失って、勝てねぇなぁ、と漠然と思った。

 身体からも顔からも力が抜けて、へらっと笑ってしまっていた。恥ずかしがるのもくだらなく思えて……欲望こころに身を委ねるように、俺も頰に感じるその温度をじっくりと味わった。ぬくもりというには冷たすぎるような、ひんやりとして心地よい香月の体温を……。


「大丈夫?」俺が黙り込んだからだろうか、ふいに香月が遠慮がちに見つめて訊いてきた。「嫌じゃ……ない?」

「嫌じゃねぇよ」


 キスしてきといて今さら何言ってんだか、と苦笑しながら答え、


「お前の手は相変わらず、冷たいよな」とぼんやり言うと、香月はふわりと笑って「気持ちいい?」と恥ずかしげもなくさらりと訊いてきた。


 なんて奴だ……と心底、呆れて、腹立たしくて――むしゃくしゃするほどに愛おしくなる。


「ああ――気持ちいいわ」


 ため息混じりに言って、「ずっとこうしてたい」と瞼を閉じてぼそっと呟いた瞬間、


「はにゃ……!?」


 と素っ頓狂な声が辺りに響いて、ぱっと頰からそのぬくもりが消えた。

 はにゃ……?

 ぎょっとして目を開けば、香月は降参でもするように両手の平をこちらに向けて膝立ちしていた。そんな姿勢で表情を強張らせて固まって……。アクション映画のワンシーンを彷彿とさせるような、まるで銃でも突きつけられているんじゃないか、と言うようなポーズだ。ただ……その顔は真っ赤に染まって、怯えているようなそれでは全く無いが。


「な……なにやってんだ?」


 訝しげにそう訊ねると、香月は見開いた目をぱちくりとさせ、すとんと腰でも抜けたかのようにその場に座り込んだ。そうして、あひる座りになって両手で顔を覆うと「ん〜」と悩ましげな唸り声を漏らして身じろぎし始める。

 泣いている……わけではなさそうだが。なんだ? なんなんだ?

 状況が全く掴めず、まじまじと見つめていると、


「ば……爆発しそう」

「何がだ!?」


 ぎょっとして、思わず、身構えたとき、


「陸太〜!」と隣のリビングから、薄い壁を通して再び母の声が聞こえてきた。「肉まん! せっかくだから、冷めないうちに香月ちゃんと食べに来なさい!」


 うがあ、と叫びたくなった。

 相変わらず、タイミングの悪い……! しかも、『適当に食べに出てきなさいね』とついさっき言ってきたはずなんだが!?

 げんなりとして、ため息が漏れた。

 うちの母は昔からせっかちで心配性。気になりだすと止まらない性格というか。こうなるとしつこいのは俺もよく知っている。このままだと、五分ごとに肉まんコールが来そうだ……。

 まあ、食べながらも話せる。とりあえず、取ってきてから、また話せばいいか。

 今の香月はなんだか話せる雰囲気でもなさそうだし……。


「ちょっと、肉まん取ってくるわ」


 立ち上がりつつ、振り返ってそう言うと、香月は慌てた様子でばっと顔を上げ、


「あ……待って、陸太!」と立ち上がって、焦ったように言ってきた。「あと、一つだけ。話しそびれちゃったら嫌だから……肉まん食べる前に言っておきたいんだ」

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