第8話 絶交

 まるで天にでも昇るような、恍惚とした気分に酔いしれていたところを、いきなり泥沼にでも突き落とされたようだった。

 愛らしく微笑む香月の口から飛び出したその言葉はもはや懐かしいほどに幼稚なもので。それでいて、実に物騒なものだった。

 さっきまでの安穏とした空気はなんだったのか。その単語に繋がる流れに全く覚えがない。まさか、俺……また、何か勘違いしたのか? てっきり、お互い、同じ気持ちだって――『友達』以上に想っている、て確認し合えたのかと思ったのだが……違ったのか!?

 冷や汗がどっと背中から噴き出すのを感じた。


「絶交って……な……なんで……どういう……!?」


 当然ながら、あたふたと慌てふためき、噛みまくっていると、


「陸太〜!」と、がなりたてるような母の声が、ガタンバタンと玄関の扉が開閉する音とともに聞こえてきた。「ただいま〜。肉まん、買ってきたわよ〜」


 いや、このタイミングで……!?

 ぎょっとして背後のドアに振り返ったとき――「陸太」と呼ばれ、


「ごめんな! とりあえず、あとで取りに行く、て言ってくるわ」


 それだけ言って、立ち上がろうとした――のに。

 できなかった。

 顔を前に向き直すや、するりと両頬に冷たく滑らかものが滑り込んできて、俺の顔を挟み――それが香月の手だと気付いたときには、何も言えなくなっていた。

 戸惑う声を発することもできず、吐息すら漏らすこともできず、しんと静まり返った部屋の中、玄関からリビングへと向かってドアの向こうを通り過ぎていく慌ただしい足音と「適当に食べに出てきなさいね〜!」という母の声だけが響いていた。

 閉じた瞼がすぐ目の前にあって、合わさった長い睫毛に残る涙まで見えた。ふわりと髪が目元をくすぐり、柔らかなものが唇に触れているのを感じていた。


 それは俺の知ってる『絶交』とは程遠くて。儚いほどにあっけなくも……優しく温かで、何度でも味わいたいと思ってしまうほど甘いものだった。


 思考も止まり、心臓さえも鼓動を鳴らすことを忘れてしまったかのようだった。時が止まってしまったんじゃないか、とすら思えるほどの静寂があってから、唇を塞いでいたそれはあっけなく離れ、その柔らかな感触の余韻だけが残された。

 途端に、切ないほどの名残惜しさに襲われ――ようやく、それがキスというものだったことに気づいた。

 あまりに突然で、あまりに一瞬で。すっかり虚を突かれ、瞬きさえできずに呆然として見つめる先で、香月は少しだけ顔を離すと、俺の両頬を両手で包み込んだまま、ゆっくりと瞼を開いた。そうして、じんわりと熱を帯びた瞳を潤ませながら俺を見つめ、はにかむように微笑み、


「これで……もう友達には戻れないね」


 勝ち誇った風でもなく、脅すようでもなく……少し不安さえ漂わせながら、こっそり内緒話でもするようにそう囁いた。

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