第3話 いい友達
「残しておきたかったんだ。私だけの特別なもの」
まるで遠い日でも懐かしむようにやんわりとそう言い添えて、香月は俺から顔を逸らすようにして正面を見つめた。
切なげにも見えるその横顔を見つめて、俺は言葉も出ずに固まった。
ずっと香月との間に感じていた『隔たり』が、香月の『女の意地』だった、なんて――それはつまり、どういうことなのか。その言葉をどう受け止めたらいいのか。いきなり、そんなことを言われてどう反応したらいいのかも分からない。考えも纏まらず、困惑している間にも、香月は「なんて言って、結局、騙して上り込むようなことしちゃったんだけどね」と冷笑のようなものを零して容赦なく話を続ける。
「でも……こうでもしないと、もう二度と来れないかもしれないと思って」
「もう二度と――?」
いきなり香月が校門の前に現れて、肉まんを食べたい、とウチに来て、そして、長年引っかかっていた『一線』の正体を明かされて……。
頭の中はぐちゃぐちゃととっ散らかって、どこからどう整理したらいいのかも分からない。次から次へと疑問ばかり湧いてきて、その中のたった一つの『答え』さえ出している暇もないくらいで。
それでも……その一言だけは聞き逃せるはずもなく、反射的に訊き返していた。
二度と無い――。その言葉は、あまりに違和感があって。耳にも口にも馴染みがなくて。俺たちの間に存在しないと思っていた言葉だった。
部屋に満ち満ちる赤々とした陽の光が焦燥感を煽るようだった。そんな焼けるような陽が照らす香月の横顔は、心なしか強張って怯えているようにも見えて……確信にも近い嫌な予感が心の内にじわじわと広がっていくのを感じた。
逸る気持ちを抑え込み、俺は必死に平静を装い、改めて訊ねる。
「もう二度と来れないって……どういうことだ?」
すると、香月はその横顔に躊躇う色を浮かべながら、観念したように苦しげに息を吸い、
「昨日……」とスカートを見下ろしながら、ぽつりと答えた。「昨日、氷上練習のあと、護に話がある、て呼び出されたんだ」
グサリと胸に杭でも打たれたようだった。
昨日――その単語一つで、俺にとってはもう充分なくらいで。それを聞いた瞬間、頭の中を埋め尽くしていたすべての疑問が吹き飛んだようだった。その代わり、嫌な予感がはっきりとした『答え』となってぽつんと頭の中に浮かぶ。
二度と俺の部屋に来れなくなる、てことは――。訊くまでもない。最初から、その理由に思い当たることは一つしかなかったんだ。
時間は大事にしなよ、と忠告するように言った小鶴さんの声が脳裏をよぎる。
どっちかに恋人ができたら、気軽に遊ぶこともできなくなるし、部屋に行くこともできないよ――と、やんわり微笑み言ってくれた小鶴さんの助言が今になって胸に沁みるようだった。
「陸太……聞いてる?」
ふいに、香月の心配そうな声が聞こえてきて、俺はハッと我に返った。
視界にはあぐらをかいている自分の脚とフローリングだけがあった。いつからだったんだろう……俯いていたことにそのときに気づいた。
心臓が今にも焼け落ちそうなほどに激しく波打って、身体まで震えている気がした。呼吸も乱れて息苦しいほどで、それを悟られないように咳払いして「ああ」と相槌打った。
「ちゃんと聞いてる」膝の上で拳をぐっと握りしめ、顔を上げ、「昨日、氷上練習のあとに……護に呼び出されて、口説かれたんだよな」
焦りながらもなんとかそう返したのだが、香月はハッとしてから怪訝そうな顔を浮かべた。
「口説かれた……なんて言い方、私はしなかったはずだけど」やんわりと、だが疑るように言って、香月は俺をじっと見てきた。「もしかして……もう誰かに聞いた? 護か……カブちゃんか」
しまった……!
絢瀬の顔がよぎり、思わず、あからさまにぎくりとしてしまった。それだけでもう自白したも同然だったろう。香月は「そっか」とがっかりしたようにため息ついて、まっすぐに伸ばしていた背筋をへにゃりと曲げ、背後のベッドにもたれかかった。
「陸太が他の誰かから聞く前に、私から直接伝えたかったんだけど」
独り言のようにそうぼやき、香月は俺のほうをちらりと見て「ごめんね」と申し訳なさそうに苦笑した。
「こんなことなら、テスト終わってからでも良かったね。テスト前の大事な時期に押しかけることなかった」
「いや、それは別に……」
――というか、そんなことはもうどうでもいい。そんなことより……。
俺はごくりと生唾を飲み込み、キリキリと締まっていく喉をこじ上げるようにして「で」と訊いた。
「オッケー……したのか?」
今さら祈ることもないだろうに。もう手遅れなんだろう、て心のどこかでは分かっているのに。それでも、ううん、と首を横に振って欲しくて。縋るように見つめる先で、香月は穏やかに微笑み、「うん」とあっけなく頷いた。そして、正面の壁をうっとりとした眼差しで見つめて、追い討ちでもかけるように愛おしそうに続ける。
「練習見てたら、かっこいいな、て思っちゃって。やっぱり、私も好きなんだな……て思い知った」
ああ、そっか――て、言葉が果たしてちゃんと口から出たのか分からなかった。
一気に体から力が抜けた。身体中の骨がふにゃふにゃになったみたいだった。一瞬にして爺さんにでもなってしまった気分だ。
落胆……なんてもんじゃなかった。絶望も通り越して、空っぽになったみたいな。果てしない虚無感に襲われた。
分かってた……はずだったのに。こうなることも覚悟した上で、あのとき、選んだくせに。
あのとき――GWに護と会うと言う香月を止めもせず、一緒に行って邪魔をしようともせずに身を引いたあのときに、俺は『友達』でいることを選んだんじゃないか。
香月のことが好きだから。だからこそ、告白すべきじゃない、て思った。
香月を好きだ、て分かったときには、護が香月のことが好きだ、て知ってしまっていて、『告白』が残酷な行為にしか思えなくなった。香月を困らせたくなかった。悲しませたく無い、と思った。護やカブちゃんや、ヨシキや俺と『皆』で会うのを楽しみにしてる香月をがっかりさせたくなかった。そんな香月の望みを叶えてやりたい、と思った。
だから、俺は『いい友達』でいようと思った。今まで通り、『親友』として香月の傍にいよう、てあのとき決意したんだ。
別に、これ以上近づけなくたっていい。香月に触れられなくてもいい。
フリでもいい。『親友』でいよう。香月がずっと、そうして俺を支えてくれたみたいに――て。
それなのに……なんで、今さら狼狽えているんだ。そんな資格も俺にはないはずだ。俺がするべきことは何も変わらない。変える必要もない。あのとき決意した通り、俺はただ、前みたいに振る舞っていればいいだけで……。
「きっと……これから、生活も変わっていくと思うんだ」とふいに香月は険しい表情で、重々しく切り出した。「正直、怖いし、不安でたまらない。でも……だからこそ、私は陸太との関係も変えたい。もう変えなきゃいけないと思う。今のままじゃ、私はどこにも進めないから。今日はそれを言おうと思って――」
そこまで言って、ぐっと眉間に力を込めてこちらに振り返った香月に、俺はすかさず「分かってる」と答えた。そして、今まで通り、へらっと笑い、「護とお前が付き合うなんて想像つかねぇけど」とからかうように言う。
途端に表情を曇らせ、「え」とか細い声を漏らした香月に「でも……そうだよな」と畳み掛けるように続け、
「お前ももう彼氏がいるなら……これからはこうして二人きりで会うのはやめたほうがいいんだよな。部屋に来たりするのもまずいんだろうし。俺も、もうお前の家には行かないようにするわ。護にも悪いし、これからは距離を開けて……」
覚悟を決め、もう後戻りはできないんだ、と自分を追い込めるつもりでいけしゃあしゃあと言い出して……ほんの数秒。
ああ、ダメだ――と悟った。
香月と見つめ合うだけで……不安げに揺れるその瞳に見つめられるだけで、どうしようもなく愛おしさがこみ上げてきて、胸に詰まるようで。それ以上、何も言えなくなってしまった。
必死に貼り付けた笑みもあっけなく剥がれ落ちて、嘲笑じみたそれへと変わり果てていた。
俺には無理だ、と打ちのめされるようだった。『カヅキ』みたいに涼しげな笑みで、悠然と……なんて、俺にできるわけがなかった。
香月を前にしたら、抱きしめたい、て思ってしまって。そういう想いをいくら理性で押さえ込もうと……平然として傍にいられるほど、俺は器用な人間でもなければ、強くもない。
――結局、俺は香月のためにそこまでできるほど、『いい友達』じゃないんだ。
「ごめん、香月。俺……無理だ」と乾いた笑いを零しながら、俺は諦めたように力なく言った。「俺はもう香月を友達とは思えない」
「陸太、待って。なんで――」
困惑した様子で口を挟んできた香月を「好きなんだ」と俺は遮り、
「大好きなんだ。――だから、もう傍にはいられない」
そうはっきりと言い切った。
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