四章

第1話 朝の挨拶

 連絡……なんも無ぇのな。

 香月と映画を観に行ったのが土曜日で。その夜も、日曜日も、そして今朝も……LIME一つ来ない。

 朝の活気に満ちる昇降口で、俺は一人、陰鬱とした気分で上履きに履き替えながら、ちらりとスマホを確認していた。特に通知もなく、自然とため息が漏れる。

 別に、毎日、『カヅキ』と連絡取り合ってたわけでもないのに。気まずい別れ方をしたからなのか、香月から連絡が来ないことが無性に気にかかって……なんだろう、イライラする――。

 香月のやつ。あんな風に……「なんでもない」って繰り返されたら、気になるだろうが。


「笠原くん――!」


 わ、と大声を耳元で叫ばれたような、そんな衝撃だった。ぼうっとしているところに、いきなり背後から名前を呼ばれ、俺は大仰に「うわあ」と飛び跳ねて振り返った。


「な……なん……!?」

「あ、ごめん」わわ、とそこに立っていた人物は慌てたように口元に手を当てて、「何度か呼んだんだけど返事がなかったから……声量上げてみました」


 波打つ柔らかそうな長い髪をふわりとなびかせ、「おはよう」とおっとり微笑む小柄な彼女は、まるで人畜無害な羊のようで。まだ少し眠そうな目といい、安穏とした朝の空気がよく似合う。それでも……そんなふわふわと綿毛のような雰囲気を纏う彼女が相手でも、「お……おはよう」と応える声は吃って、つい、癖のように視線を逸らしてしまう。


「よかった、よかった。また避けられてるのかと思ったよ〜」

「いや……今までも、避けてたわけでは……」

「いいの、いいの! 私も人見知りだから、分かるよ〜。新学期の最初って緊張しちゃうよね」


 歌でも歌うようなのびやかな声でそう言って、俺の隣で上履きに履き替え、「じゃ、また教室でね」とひらひら手を振り、廊下の方へ走り去っていく。そんな彼女の背中を呆然と見送って、まるで春の嵐でも過ぎ去って行ったかのような……そんな気分にさせられる。

 同じクラスで、隣の席の小鶴こづるさん。

 新学期が始まって、何度か声をかけようとしてくれていたのだが……女子が話しかけてきそうな雰囲気があると、幽霊のごとく気配を消して立ち去るか、机に頭突きをする勢いで突っ伏して寝たふりをするか――の二者択一の生活をしていた俺。つい最近まで、一言たりとも言葉を交わしたことがなかった。

 ――まあ……避けていた、と言われれば、避けていたのか。

 絢瀬との一件で、誤解が解けてから――女子への恐怖心を創り出していたのは、俺自身の妄想であったと分かってから――一言二言だがクラスの女子とも話せるようになって……小鶴さんともこうして、毎朝、挨拶を交わせるようになっていた。まだ、自然に……とはいかないけど。それでも、手応えみたいなものは感じるから、挨拶するたび、ほっとして励まされる気がした。

 挨拶だけであくせくして一喜一憂なんて。ほんと、小学生ガキみたいだよな、と我ながら呆れるが。


「お前はずるい」


 突然、背後から、今度は小鶴さんのものとは正反対の……まるで魔王のように暗く低い声が聞こえた。

 なんだ、と振り返れば、


「子犬を拾った不良か!」


 犯人を追い詰めた名探偵のごとく、いつになく鋭い眼差しで、びしっと俺を指差してくるこの男。朝から、また面倒臭そうな絡み方をしてくる……とげんなりとした。


「なんだよ、遊佐。子犬も拾ってねぇし、不良でもねぇよ」


 靴を拾って下駄箱に放り込み、さっさと歩き出す――が、

 

「挨拶できただけで小鶴さんにちやほやされやがって!」と、泣き言のような、恨み言のような。なんとも情けない声が悪霊のごとく背後からついてくる。「そんなギャップ萌えがあるなんて聞いてねぇよ。拗らせてただけのくせに、硬派扱いかよ!? 俺もお前みたいに『女の子苦手キャラ』で行けばよかった!」

「キャラじゃねぇよ!」 

「香月たんにも甘やかされやがって……羨ましすぎる」

「だから――香月たん、て言うな!」


 くわっと振り返って怒鳴りつけるが、遊佐は「あ、そういえば」と悪びれる様子もなく、さらっと無視して切り出した。


「行ったんだろ、映画?」と顔立ちだけは賢そうなそのツラに、にたりと品のない笑みが浮かぶ。「香月ちゃんと二人で……」

「ああ……行ったけど」

 

 待ってました、と言わんばかりに遊佐は俺の隣に来て、白々しく「どうだったんだよ?」と小声で訊いてくる。

 朝の廊下は混み合って、辺りは騒がしい。小声にしなくても、どうせ誰にも聞かれるわけでもないのに。そもそも、聞かれてまずい話でもない。何をそわそわコソコソとしてるんだか。


「どうって……」とぼんやり思い出し、俺は苦笑した。「すげぇエロかった」

「は!? いや……え!? うそ……マジで?」


 なぜか遊佐はあたふたと慌て出し、まるで空き巣のごとくキョロキョロ辺りを見回してから、俺を廊下の壁に追いやるようにぐっと近寄ってきた。そして、未だかつてないほどに真剣な眼差しを俺に向け、


「もっと詳しく……!」

「ええ……?」


 なんで、こんなに食いついてきてんだよ。

 あからさまに顔をひきつらせるが、遊佐が俺の顔色など気にするわけもない。ギラギラと禍々しいほどの眼光をその瞳に宿らせて、じっと俺の言葉を待っている。

 なんなんだよ、その熱意は?


「詳しくって言われてもな……いきなり服脱ぎ出して、襲いかかってきたんだよ。驚くだろ。やってる最中にばっちり香月と目が合うし。香月も、さすがに過激すぎた、て終わってから言ってたけど」

「襲……過激……!?」


 遊佐は目を見開き、愕然として固まってしまった。

 こんなに動揺するのも珍しい。銅像のように動かなくなった遊佐を、ついまじまじと眺めてしまった。


「意外に、お前も……興味あるんだな」

「意外って……!?」


 我に返ったようにハッとして、「当たり前だろう!」と遊佐は熱の入った声を上げた。


「あの香月ちゃんが……いきなり、服を脱ぎ出して襲いかかってくるなんて、そっちのほうが意外で、ギャップがたまらな――」

「は!?」とぎょっとして、俺は大声を上げていた。「なんで、香月……!? 違ぇよ、映画の話だよ! 映画に出てくる女郎蜘蛛がエロかった、ていう話で……」


 すると、遊佐は魂でも抜けたかのようにぽかんとしてから、


「なんで……女郎蜘蛛のエロい話をするんだよ!?」とかっと目を見開いた。「誰が喜ぶんだ、そんなもん聞いて!?」

「どうだった、て訊いただろ!?」

「映画の内容なんて聞いてねぇよ! 香月ちゃんとどうだったのか、て訊いたんだよ!」

「どうって……?」

「あーもう……面倒くせぇからいいや」と辟易した様子でため息ついて、遊佐は吐き捨てるように言った。「その様子だと、別に何もなかったんだろ」

「逆に、何があるんだよ?」ジト目で遊佐を睨んで、俺は鼻で笑った。「映画観て、香月の家に行って、帰っただけだよ」

「家に行ったのかよ!?」


 苛立ちと驚きの混じった声を張り上げ、遊佐は再び血相変えて詰め寄ってきた。


「最初からそっちを詳しく話せよ! 何があった!?」

「だから……何も無ェよ。一緒に『銀河大戦争』観ただけだ。途中から、香月は無口になって、何訊いても『なんでもない』しか言わなくなるし。大して会話もないまま帰ったよ」

「いや……え?」


 遊佐ははたりとして口を噤むと、何やら深刻そうに眉をひそめ――突然、ぶっと噴き出した。


「お前……それ、喧嘩してんじゃん」

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