第14話 彼女との距離

 背後はベッドに阻まれ、少しでも動けば香月の身体に触れてしまいそうで。身じろぎひとつできずに、俺は金縛りにでもあったように固まっていた。

 そうして、どれくらい経ったんだろう。

 数秒だったのか、数分経っていたのか。一瞬のようで永遠のようにも感じる静けさの中、なすすべもなく香月を見つめていた。何かを訴えかけてくるような、まるで懇願するような、どこか切なげなその眼差しに、既視感を覚えながら……。

 爽やかで凛々しい『王子様』でもなければ、今日一緒に映画を見に行った『女の子』でもなく……その惹きつけられるような謎めいた雰囲気も、憂いを帯びた心許なげな表情も、全くの別人のようで――でも、どこかで会ったことがあるような、そんな感覚があった。

 いつだろう。俺は香月のを前にも見たことがある。


「覚えてる?」と、僅かに開いた唇から、頼りなくか細い声が漏れる。「陸太の女性恐怖症、私が治す、て言ったの」

「え……」


 急になんだ? と戸惑いつつも、記憶を辿って「ああ」と答えた。

 香月はホッとしたような、照れたような微苦笑を浮かべ、


「その気持ち、変わってないから。まだ完璧に克服してないんなら……手伝いたいの」

「手伝うって……」


 手伝うって、どうやって――と言いかけ、すぐに言葉を切った。

 いや。聞くまでもない。ちゃんと


 二回――。

 香月は、俺の女性恐怖症を治す、と言ってくれた。


 最初は、カラオケボックスで、まだ親友カヅキだったころ。女性恐怖症を治したい、と明かした俺に「手伝うよ」て言ってくれた。信用できる女の子と出会えれば、女性への見方も変わって、恐怖心も和らいでいくじゃないか――て、熱く語ってくれた。

 そして、二回目は……。


「もし、私が陸太にとって、特別な……『信用できる女の子』になれたんなら……」


 顔を赤らめ、遠慮がちに……でも、しっかりと俺を見上げる彼女に、俺はハッとして息を呑んだ。

 ああ、そうだった――とようやく気づく。だ。

 胸の奥で燻っていたものが爆発したような……そんな昂りを感じて、身体中に一気に熱が駆け巡った。

 はっきりと思い出した。目の前の彼女かづきを、いつどこで見たのか。


「もう触っても大丈夫なんじゃないかな……て思うの。だから……触ってほしい。少しずつでいいから……」


 躊躇いつつも縋るようにそう言った香月の声が、記憶の中の彼女の声と重なった。合コンのあと、子供達の笑い声が木霊する小さな公園で、「どこでも、触っていいから」と――そう力なく懇願するように言った彼女の声と……。 

 同じだと思った。

 張り詰めた空気も。恥ずかしそうな表情も。必死に訴えかけるような声も。あのときの香月と同じだ。初めて、女として向かい合った彼女と……。

 俺はそんな彼女に違和感しか覚えなかった。『カヅキ』が女だったと知って……十年も親友だと思ってた奴が消えてしまったような喪失感に襲われて、代わりに現れたを受け入れられなかった。得体が知れなくて怖かった。だから、「『カヅキ』をきみだとは思えない」と目を逸らして逃げた。

 でも、今は……。

 あのときと違って、もう目を逸らすこともない。すぐ傍にいる彼女をまっすぐに見つめることができて……だからこそ、苦しげな浅い息遣いも、怯えるように揺れる瞳も、そして、その肩が僅かに震えていることも、手に取るように分かってしまって――暗がりの中、肩を震わせて泣く香月の姿が脳裏をよぎった。

 初めて話したときからやり直そう、と俺が言うや否や、堰を切ったように泣き出した香月。その姿に、何年もの間、香月が『王子様』のような涼しげな笑顔で嘘を吐き、隠してきたものを……どれほど、その肩に背負わせてきてしまったのかを俺は目の当たりにした気がした。

 もう二度と、そんな嘘は吐かせたくない、と思う。

 また、香月に甘えて、その肩に重荷を背負わせてしまうんじゃないかと……また香月を傷つけて泣かせてしまうんじゃないか、と――そう考えただけで怖くなる。

 だから――。


「私、なんでもする。陸太が触れるようになるなら――」

「香月」


 意気込み、さらに身を寄せてきた香月の両肩を掴んで、俺は引き離すように遠ざけた。


「そういうのはもういいって。俺のために何かしようとか……そういうのはもういいんだ」


 射るような眼差しで見つめ、言い聞かせるようにそう言うと、香月は呆気にとられたようにぽかんとしてしまった。

 掴んだ肩はやっぱりあまりにか細くて……不安になるくらいで。守りたい、なんて本能みたいな衝動が込み上げてくる。今まで散々頼ってきて、どの口が――と我ながら思ってしまうけど。でも、だからこそ……何年も嘘まで吐いて傍にいてくれた香月を大切にしたい、て思うから。今度は俺が支えられるようになりたいんだ。


「女性恐怖症も、あとは自分でなんとかするから。心配すんな」と誓いでも立てる思いで、俺ははっきりと言った。「もうお前が無理する必要はないから」

「無理なんて……」

「香月は俺にとって特別な友達だからさ。その体で人体実験みたいなことしたくねぇよ」


 照れを冗談で隠すように。苦笑してそう言うと、香月はハッとして黙り込んだ。

 強張っていた肩から力が抜けていくのが手のひらを伝わって分かった。緊張が解けていくような――でも、その表情は暗く沈んでいくようで、「特別な友達……か」と力無くつぶやいた声からも落胆のようなものが伺えた。


「どうかしたか?」と訊ねるが、「なんでもない」と香月はニコリと微笑むだけで、さっと立ち上がると「映画観ようか」と何事もなかったかのようにローテーブルに向かった。

 さっきまで、心臓の鼓動まで聞こえてくるんじゃないか、という近さにいたというのが嘘のようだった。あっさり離れていった香月に、妙な物足りなさのようなものを感じつつ……俺ものっそりと立ち上がり、香月のほうへ歩み寄った。


 結局――。

 遊佐と座るならこれくらいかな……という距離を開けて、香月の隣に座ってみたのだが。ちらりと横目に見る香月の横顔は、樹さんの部屋で見ていた『カヅキ』のそれより遠い気もして……。もうちょっと近くに座るべきだったのか、それとも、これで正しかったのか。悶々と考えながら映画を見始める羽目になった。

 隣に座る香月はといえば、そんな俺に何か言ってくるわけでもなく……クッション抱えて体操座りして、心なしかムッとした表情で映画を見ていた。話しかけても、どこか他人行儀な笑顔で当たり障りなく返され、「なんでもない」感じでは全く無い。しかし、当然のごとく、「どうした?」と訊いても「なんでもない」と涼しげな笑みで躱されるのみ。

 静かながらもじわじわと……今まで『カヅキ』からは感じたことがないようなオーラが漂ってきて、今日観たホラー映画とは比べ物にものならないほどの悪寒を覚えた。

 まるで針の筵に座っているような。すさまじく居心地悪い三時間が過ぎ、香月との間に気まずい違和感を残したまま、俺は帰路に着いた。

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