第12話 君との距離①

「お前……男だったときに話したことを持ち出すなよ!」

「なんで?」

「なんでって……」

「最初からやり直す、て言っても、全部なかったことにはしたくないよ」


 少し不満げに眉を顰め、独り言のように香月はぼそっと言った。

 そんなふうに言われてしまうと……。


「いや、そりゃ……全部、忘れろ、てわけじゃないけど……」

「よく分かんないなぁ。今さら、恥ずかしがらなくてもいいのに」


 今さら……という言葉が、追い討ちをかけるように胸に突き刺さった。

 ああ、そうだよな。もう手遅れだよな。小学校時代はまだしも。中一からの四年間。思春期のデリケートな時期に、男同士だし、と油断して緩んだ口がいったいどれほど暴露しまくってくれたのか。もはや思い出したくもない。どんな話をしようと『カヅキ』は興味深げに黙って聞いてくれるもんだから、余計に口が軽くなって――。

 恐ろしい。考えたくない。『カヅキ』に語ったあれこれ全てを思い出してしまったら、今この場でぶっ倒れる自信がある。

 ぞっとして固まっていると、香月は、仕方ないな、とでも言いたげにため息ついて、


「陸太が嫌ならもう言わないよ」


 やんわりと慰めるようにそう言って、香月は俺の横を通り過ぎ、部屋の中へと入っていった。

 その背中を横目で見送り、安堵していいものか迷う。

 根本的解決は全くしていない。香月が口に出さないだけで、その記憶から俺の性癖含めた趣味嗜好その他もろもろの情報が消えるわけでもないし。

 でも……とりあえず、今後、話題に上らないなら御の字か――と、ふっと鼻で笑った、そのとき、


「今、パソコン用意するね。適当に座ってて」


 ごくごく当たり前のように投げかけられたその言葉に、俺は、ぎくりとして凍りついた。

 一難去ってまた一難……だ。

 適当に座って――それが、どれほど難しいことか。香月に分かるはずもない。


 ダメだ。

 思い出したように心臓が騒ぎ始め、動悸息切れのオンパレード。体の中がたちまち熱くなって、のぼせ上がったみたいに頭がぼうっとしていた。

 部屋の中を右往左往して、ローテーブルの上にノートパソコンをセッティングする香月を視界の端で捉えながら、俺は置物のごとく固まっていた。

 、こうして香月が何かをしているのを待っている間、だらだら世間話でもしていたのに。話題がなければないで、スマホいじったり、漫画読んだり、好きなことして時間を潰していたもんだ。

 それなのに、今は――。

 話題も思い浮かばず……そして、そんな沈黙がやたらと気になる。のんびり何かをして待っていようなんて穏やかな心地にもならない。落ち着かなくて、ちまちまとオレンジジュースを飲むことだけを単純作業のように繰り返していた。

 そうして、


はいれた!」


 しばらくパソコンとにらみ合いをしていた香月が――どうやら、兄妹で共有しているVODサービスのパスワードを忘れて、リセットするのに苦戦していたらしい――ぱくっとポップコーンを一つ口に放り込んで意気揚々と振り返った。


「お待たせ。見よっか」


 しかし。

 晴れやかな香月の笑み――が、途端に引きつる。眉を曇らせ、じっと俺を訝しげに見つめると、

 

「遠くない?」

「な……なにがだよ」と俺はふいっと顔を背けた。

「分かってるでしょ」


 呆れたような香月の声に、分かってるよ――と心の中で吐き捨てるように言う。

 でも……無理だって。は無理だ。

 ローテーブルとベッドの間にちょこんと座る香月……から一メートルほど離れた、ベッドの端っこのほうで、俺は縮こまるようにして床に座っていた。


「見えなくない?」と疑るように言われて、「大丈夫、メガネしてるんで」と我ながらよく分からない言い訳をする。


 すると、困ったようなため息が聞こえて、


「『案外、前と変わらない』って……言ってなかった? 前よりずっと遠くなってる気がするんだけど」

「それは……」


 この部屋に来る前の話だよ……とは流石に言えず、俺は押し黙った。

 しばらく、重たい沈黙があってから、


「もしかして……私、何かした?」


 ふいに流れてきたそのか細い声に、ずん、と心臓に重い衝撃が走った。


「いや……」と慌てて声を上げ、俺は香月に振り返った。「それは違う! そうじゃなくて……ただ、お前の部屋が樹さんの部屋と違いすぎて、戸惑ってるだけで」

「部屋……?」

の『女の子の部屋』なんて初めてだから……どうしたらいいか分からなくて。どこに座ればいいかも分からない――て、それだけなんだ」

「どこにって……好きなところでいいんだよ?」と、香月は気遣うようにぎこちなく笑った。「クッション、好きに使ってくれていいし。ベッドの上でも……」

「そうじゃなくて……! そういう具体的な場所の話じゃなくて……距離、ていうか……」


 言いながら、胸の奥がざわついて、視線が泳いだ。

 ――そう。座って、と言われて、真っ先に考えたのは香月との距離だった。

 今まで、意識したこともなかったのに。二人きりの部屋で、どれくらい近くに座っていいんだろうか、と考えてしまった。考え出したら、もうダメだ。悩んでるうちに、『カヅキ』ともどうやって一緒に座っていたのかも分からなくなってきて……。

 『女の子の部屋』に動揺しすぎだ、て自分でも思うけど。


「だからさ」と俺は自嘲するように笑って、香月を見つめた。「香月が何かしたとか、そういうわけじゃなくて……」 

「そっか。距離……か」


 俺の言葉を遮り、香月は視線を落としてぽつりと呟いた。

 納得したような声色。でも、その表情は硬くて、ホッとした様子でもない。


「そうだね」とややあってから、何やら重々しい口調で香月は言った。「私も……知りたい」

「は……?」


 思わぬ返事にきょとんとしていると、香月はじっとまっすぐに俺を見つめてきた。ぞくりとするほど静かで、それでいて力のこもった熱い眼差しで……。


「私、どれくらい陸太に近づいていいの?」

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