第10話 辿り着いた先

 登りながら、両脇に連なる家々を尊敬の眼差しで眺めた。こんなところに住んでたら、毎日がトレーニングじゃねぇか。

 実際、山を切り崩して作った住宅地なんだろうが……立派な登山だよ。中腹まで来て、太ももが破裂するんじゃないかと思った。

 ホッケー辞めてからスポーツもしてなかったし、習慣で軽く筋トレしたり、近所を走ったりするくらいだったから、まあ、走りきれるわけもなかった。

 ノロノロ歩いて頂上に着いたころには、赤みがかっていた空は濃紺に変わり、星の瞬きがうっすら見え始めていた。

 その時点で、十分、嫌な予感はしていた。

 てっきり、下ってくる陸上部と途中ですれ違うかと思っていたが、そんなことなど一度もなかった。脱いだブレザーのジャケットを肩にかけ、ぜえぜえ息を切らして登る俺を、住人らしき人が不審そうにチラ見して坂を下っていくくらい。

 おかしいとは思っていた。いくらなんでも、こんな遅くまで校外でトレーニングするだろうか、と。

 しかし、引き返そうとするたび、がんばって、という戸塚さんの声が脳裏をよぎった。

 戸塚さんが、この先にカヅキがいると言ったんだ。その言葉を疑うものか――と、登り続けて辿り着いたのは、広々とした広場だった。

 住宅街の中にあるそこは、木々にぐるっと囲まれて、奥に――おそらくこの山の頂上と言うべき場所なのだろう――小ぢんまりとした丘のようなものがある。

 ジャングルジムや滑り台といった遊具が置かれ、公園であることは確かなのだろうが……真ん中にぽつんと佇む照明が照らし出すそこには、子供はもちろん、陸上部らしき姿などなかった。

 そこで、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。

 なんで……とぽつりと疑問に思う。

 なんで、誰もいないんだ!?

 場所、間違った? いや、でも、ここに来るまでに公園は特に見かけなかった。坂をまっすぐ登ってきて辿り着いたんだし……途中で道を間違ったとも考えられない。

 あと、考えられるのは――と、ふいに、ぞわっとおぞましい何かが蠢くのを腹の底に感じた。

 戸塚さんに……騙された? そういえば、俺が坂に登ったら、あとで盛り上がるとかなんとか言っていたし……。

 って……いや。いやいや! か!?

 最低だ。

 身体だけじゃない。思考にも変な癖がついてる。被害妄想甚だしい。自意識過剰だ。なんで、わざわざ戸塚さんが俺にこんな嫌がらせをするんだ。おかしいだろう。

 自分がどれだけ、これまで腐っていたか思い知る。

 ひどい自己嫌悪に襲われて、はあ、と俺は重い溜息ついてその場にしゃがみこんだ。

 とりあえず、だ。ここに陸上部がいないのは事実だ。なんらかの食い違いがあったことは間違い無い。

 とにかく、下るか……と、すでに筋肉痛が来ていそうな脚にぐっと力を入れて立ち上がった。

 そのときだった。


「陸太!」


 人気のない公園に、よく通る澄んだ声が響き渡った。

 ハッとして振り返ると、暗がりの中、こちらへ走ってくる人影があった。

 Tシャツに、短いランニングパンツ姿で、見るからにバテバテなフォームで走ってくる。

 よたつき、息を切らしながらも俺の前まで来ると、「よかった」とそいつは汗に濡れた顔にホッと安堵の色を浮かべた。


「さっき、グラウンドで舞衣に会って……陸太に会った、て聞いて……舞衣が勘違い……ヒルトレーニング、明日……」


 きっと、あの坂道を一気に駆け上ってきてくれたんだろう。荒い呼吸の合間に漏らすように紡がれる文章は、途切れ途切れでうまく聞き取れない。

 かろうじて聞き取れた単語から察するに――陸上部のヒルトレは明日だったのに、戸塚さんが今日だと勘違いして、陸上部が登ってもいない坂道に俺を送り出した、ということか。


「ごめんね。――大丈夫だった?」


 じっと優しげな眼差しで俺を見つめて、気遣うようにそう言う表情は、やっぱり俺のよく知るカヅキで。

 自然と頰が緩む。


「大丈夫だよ。そんなとこだろうと思ったし」

「そっか……」

「それより、お前のほうが大丈夫なのか?」

「あんま大丈夫じゃないかな」苦笑して、カヅキはその場に屈んだ。「練習後にヒルトレはさすがに堪える。脚がガクガク」

「ごめんな……」


 ぽつりと言うと、カヅキはきょとんとして俺を見上げた。


「陸太が謝ることじゃないよ」とカヅキは溜息交じりに言って、やんわりと微笑んだ。「私が好きでやったことだから。陸太にすぐ会いたくて勝手に走って来ただけ」


 そうなんだろうな――と胸が痛くなるほど、その言葉に納得してしまった。

 だからこそ……。


「ごめん」カヅキと目線を合わせるように俺もしゃがみこみ、改めてそう言った。「ずっと……お前に男のフリをさせて」

「え……」


 全く予想もしていなかったのだろう。カヅキはぱっちりとした目を見開いて、言葉も出ない様子で固まってしまった。


「あれから、ずっと考えて……分かったんだ」


 こうして目を合わせていても、絢瀬や戸塚さんのときみたいに緊張することもない。緊張するどころか、傍にいると落ち着くんだ。安心するというか、しっくりくる……感じがする。

 でも、ちらりと視線を下にずらせば、それは俺の知らないカヅキで……。ぴたりとしたTシャツや、太ももがあらわになった短いランニングパンツが、余計にそれを主張してくるようで、戸惑う。

 頭で理解しようとしても、違和感はどうしても残る。こうして会うとそれを思い知らされる。

 事実はどうあれ、十年、俺が一緒にいたのは男のカヅキだから。それは一朝一夕で覆せるようなものじゃないんだ。

 俺はふうっと息を吐き出し、カヅキの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「やっぱり、俺は『カヅキ』を男としか思えない」


 はっきりとそう言うと、カヅキは明らかに表情をこわばらせた。今にでも泣き出しそうで、俺は慌てて「だから」と続けた。


「だから、もう一回、やり直したいんだ」

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