第9話 心臓破りの坂

 待ってる、て言ってくれたカヅキの声が、今は重々しく胸に響く。

 そうやってカヅキに甘えて待たせていたのは、この二日だけじゃない。俺の勘違いというか、早とちりというか、被害妄想というか……とにかく、俺がアホなせいで、カヅキは女だと皆に明かすタイミングを失って、そのまま、四年も男のフリをさせてしまった。

 だから、これ以上、もう待たせくなかった。一分一秒も早く、伝えたいと思った。

 ――とはいえ。

 さすがに学校まで来ることはなかったのかもしれない、とカヅキの高校の校門まで来て気づいた。

 電車で二駅。この前、合コンをしたファミレスから徒歩で十五分ほど。スマホのマップを頼りにたどり着いたときにはあたりはすっかり薄暗くなって、校門を入ってすぐ脇にあるグラウンドでは照明の下で野球部が練習していた。

 話がある、とカヅキに送ったLIMEはまだ既読もついていない。たぶん、まだカヅキも部活なんだろう。

 いてもたってもいられず、勢いで来てしまったが……さすがに校門で待ち構えているのは、気味が悪いか? てか、他所よその学校の制服着たやつが校門の前にうろついてたら、怪しい……よな。先生に見つかったら、事情くらいは聞かれたりするんだろうか。

 幸い、校門前は今のところ人通りもなく、まだ生徒とすれ違うこともなく済んでいる……が。このまま、ここでカヅキを待っていれば、他の部活終わりの生徒たちとも出くわすわけで。それは、さすがに気まずいような……。

 なんだろう。急にやたら恥ずかしくなってきた。

 よし、と俺はくるりと身を翻して校門に背を向けた。LIMEが返ってくるまで、その辺で待とう――と歩き出そうとした、そのとき。


「陸太くん!?」


 弾むような声が背後から飛んできて、俺はぎくりとして振り返った。


「やっぱ、そうだ。まさか、とは思ったけど……うそうそ、どうしたの!?」


 校門の向こうで、紺のジャージを着た女の子が立っていた。

 見覚えがある。といっても、視界の端でしか見ていなかったから、ぼんやりとそのシルエットくらいしか覚えていないが……そのお団子頭と、親しげな高い声は、間違いない――気がする。

 合コンのときに、カヅキの右側に座っていた……舞衣さん、だっけ?


「私、香月の友達。戸塚とづか舞衣! あ、倉田もあそこにいるよ」


 野球部が練習しているグランドを指差しながら、戸塚さんは俺のほうへ歩み寄ってくる。


「私、野球部のマネージャーやってるの。さっきから校門の前でウロウロしている奴がいるな〜、て向こうから見てたんだけど……なーんか、陸太くんに似てるような気がして見に来たんだ。まさか、本当に本人だとは! どうしたの、どうしたの?」


 猫みたいな愛嬌のある顔を興味津々に輝かせ、戸塚さんは顔を覗き込んできた。

 その距離、二歩もない。まだ会って二回目だというのに、なんなんだこの未知の距離感。つい、顔を逸らして身を引きそうになる――が、ぐっと抑えて俺はその場に留まった。

 また、やってしまいそうになった。

 もう癖だ。すっかり体に染み付いてしまっている。

 女だというだけで警戒して、反射的に逃げようとしてしまう。過去の勘違いで産み出した、紛い物みたいな恐怖心に振り回されて……。

 戸塚さんは、ただ俺を見かけて、声をかけてくれた――それだけなのに。

 俺はすうっと息を吸い、戸塚さんを見つめた。お団子にまとめた髪が良く似合う快活そうな人だ。まん丸の顔に人懐っこい笑みを浮かべ、くりっと大きな瞳は何かを期待するようにじっと俺を見つめている。

 視線を逸らしそうになるのを必死にこらえて、俺は貝のように閉じようとする口を無理やり開き、


「は……初めまして」

「いや、二回目だけど」

「すみません……」


 アホか、と思いつつ、ホッとしていた。

 大丈夫だ。内容はともかく……一応、会話はできてる。絢瀬のときみたいに。

 心臓は一試合終えたあとのようにヒイヒイ言っているが……仕方ないよな。慣れないことをしているんだ。筋トレと同じだ。鍛えていくしかない。四年もサボったツケだ。


「香月に会いにきた……んだよね?」


 口元にうっすら笑みを浮かべながら、戸塚さんは遠慮がちに訊ねてきた。


「そう……なんすけど。でも、まだ部活みたいなんで――」


 言いかけた俺の声を、戸塚さんは「きたー!」と歓声のようなもので遮って飛び上がった。

 なに!? 何が来たんだ!?


「よかったね、香月〜」と感極まった様子で空に叫んで、舞衣さんはハッと思い出したように俺に振り返った。「よし、行ってこい、陸太くん!」

「は!? 行くって……?」

「心臓破りの坂!」

「心臓……!?」


 全く、話が見えん。なに? 

 呆然としている俺の肩をつかむと、戸塚さんはぐるんと俺の身体を半転させた。そうして、目の前に現れたのは――。


「陸上部、今日は登ってるの。上に公園があって、そこで少しトレーニングしてるはず」

「それって……」


 高校の正門の前を通り過ぎるようにして、駅とは反対方向に進んだ先。そこには、一軒家がまるで縦に連なっているようにすら見えるエグい勾配の坂があった。てっぺんのほうでは、なにやら緑が生い茂っているのが見えるが……。


「さ、追いかけるんだ、陸太くん!」

「え……いや……」


 追いかけるって……あの坂を!? 心臓破れるんでしょ!?


「そのうち、戻ってくるんですよね!? ここで待ちま――」

「ダメ」にこりと微笑み、戸塚さんは有無を言わさぬ強い語調できっぱり言った。「登っとこう。そのほうが香月も驚くだろうし、あとで私たちも盛り上がるから」


 なんで俺が坂を登ると、戸塚さんたちが盛り上がるんだ!? さっぱり、分からねぇ!


「ほら――がんばってね!」


 とん、と俺の肩を押し、戸塚さんは実にマネージャーらしい張りのある声でそう言った。

 何を応援されているのだか分からないが……押された肩もその声援も嫌な気はしなくて、それどころか、ぐっと胸の奥で熱くなるものを感じて――、


「あ……あざす!」


 戸塚さんの勢いに乗せられるようにそう答え、訳も分からず走り出していた。

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