第26話 楽園
シオンは、テントの裏で一虎を待っていた。
天気がいい。
豊かな森が遠くに見える。鳥も鳴いている。そこに生きる新人類たちは穏やかに暮らしているそうだ。事実、このテントの周りに来ている新人類たちは体格もよく、表情にも穏やかさがにじみ出ている。
凡そ、飢えとは無縁のように見える楽園。100年後にも、ずっと続くであろう平和。
それでも、シオンたちは飢えていた。この世界のすべての生き物はどういうわけか、旧人類の喉を通ってはくれない。僅かに残っている旧世界の作物の種も、どういうわけかこの地に育ってはくれない。
むかし、地上を燃やし尽くす前の旧人類は、神を信じていたのだそうだ。今、旧人類には信じるべき神はいない。地下にひきこもっているうちに習俗や文化といえるものはすっかり画面の向こうの展示品となり果ててしまった。何より、今や神とは人類の数少ない職業のひとつだ。
それでも、祈りはここにある。蒼電塔の民は宙に救いを求めて、救難信号を送り続けている。墨天坑の民は、異世界に願いを掛けている。
では、大地の民は? 一虎たちは、一体何に対して祈りを求めている?
そのヒントは、新人類にあるに違いない。
大地の民たちは、目の下を墨で黒く塗っているからすぐに見分けがつく。
昨夜の痩せた大地の民が、新人類の老人と楽しそうに語り合っている。
新人類もまた、すぐわかる。彼らは飢えていないからだ。栄養状態の違いが身体に現れている。旧人類の平均身長が150cmなのに対し、新人類は170cmくらいある。
シオンは、大地の民にも新人類にも興味がなかった。
一虎を待ちながら、早く蒼電塔に行かなければと思っていた。ポケットの隕石には現実的な重みがあった。
振り返ると、真っ黒な蒼電塔が見える。いや、見えない。蒼電塔のあまりにも黒いパラボラアンテナは、あらゆる光を吸収するため平面に見える。表面が見えない。
「お待たせしました、シオンさん」
案内人の一虎が、やっと来た。妙に埃で汚れていた。
「あまりに聞かれたくないお話なので、どうぞこちらへ」
一虎が向かったのは、奇しくも蒼電塔だった。蒼電塔の1階、窓のある控え室。
なぜかアル所長もそこにいた。
「単刀直入に言わせてください。あなた……いや、三崎隼人の作った『ハッピーエンド』を僕達にください」
『箱庭』で作った下位世界とは、モノの受け渡しはできない。しかし、情報や製法は受け取れる。
さらに、墨天坑には『お薬製造機』がある。製法の分かっている薬は作ることができる。ただし、材料の関係上現状の飢餓状態を解決できる量の栄養剤は作れない。
一虎ら地上の民は、麻薬であるハッピーエンドを欲していた。
「アル所長……」
「すまない、シオン。まさか地上の民に情報が漏れるとは……」
「シオンさんが断るとおっしゃるなら、無理には言いません。ただ、僕達はどうしても『それ』が欲しいんです」
俯いた一虎の表情は見えなかった。一虎はシオンの正面に座っているので、『案内人』と『医療スタッフ』の腕章が両方見えた。
「……ごめんなさい、あの薬はお渡しできません。あの薬を作るのに、何万人という人間が狂い死にました。それを作らせた三崎隼人は、結局ハッピーエンドを服用していません。あれは、使ってはいけないものです」
シオンの背筋はずっと伸びていた。三崎隼人が薬を作っていたと知った日のことを思い出したからだ。
あの日シオンの脳裏に浮かんだのは、今朝見たものとは趣向は異なるが美しい光景。
旧人類たちが自明かつ絶対的な酔いに溺れ、終焉を恐れることなく受け入れられる世界。蒼電塔に残ったサンたちだけが、宇宙に向けて救難信号を流し続けている。
そんな未来を考えるたびに、シオンの背筋は真っ直ぐになる。『それがいい』とほんとうに思っているから。そんな未来について考えることは気分が良くて、それでも絶対的に否定しなければならない。快楽と罪悪感の板挟みで身体は硬直する。
「……そうか、なら仕方がないです。ハッピーエンドは諦めます」
「……ああ、そうだ! 君は確かサンに会いたいって言ってたよね。これからしばらく、ここにいるといい」
所長と一虎はおもむろに席を立った。
「いえ、会えなくてもいいので伝言だけ……!」
「すまない、シオン」
ドアは閉じた。鍵がかかる。
事実上の隔離だった。
悲しくはなかった。
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