第20話 退行
「あー! 負けた!」
防具を脱いだシオンは、そのまま後ろに倒れこんだ。
負けた、といった割には彼女の口調は軽い。まるでそうなることを望んでいたようだった。
「わざと負けたのか?」
「まさか。そんなこと私がするわけないでしょ」
隼人は、そうだな、と素直に受け止めた。
「口調、なんか変わったな」
「そうかな?」
「幼くなった」
「ヒドい! もっとこう……明るくなった? とか無邪気になった? とか言い方あるでしょう」
「本当は何歳なんだ?」
「体感時間は155歳! 下位世界で過ごした累計時間は約140年!」
つまり、まだ子供だ。シオンは、墨天坑のシオンは、まだ子供だ。
奇しくも、ヒナがキュレーターになったのと同じくらいの年齢だ。
ヒナはキュレーターとしての人生を始めるとき、過去という軛から逃れるため、新しい名前を名乗り始めた。“ヒナ”はその日、生まれたのだ。それはまだ若い彼女が社会生活を続けるための、シオンの気遣いだった。
名前の由来は、因幡玲のSF小説に出てくる宇宙船の名前だった。
ヒナの本当の名前を知っているのはシオンと、西の島に置いてきた親族だけだ。その親族も彼女は事故で死んだものと信じている。
青霧島の住人も、ヒナが昔からいる者だと錯覚している。
隼人にとってヒナは幼馴染であるが、ヒナにとっての隼人はただのクラスメイトだったのだ。幼い時からの友人だと思っていて、その思い出もあるが、そのすべては偽物だ。
このことを隼人は知らない。きっと知らないほうが幸せなのだ。
『神に夢を奪われたカワイソウな幼馴染』を救うために戦い続けたかったのだから。
今の自分があの日のヒナと同じなら。
ふとシオンは考える。
自分も、今日から新しく生まれ変われるのだろうか。
答えは出なかった。
「約束は約束だよ。『ハッピーエンド』は君のものだ」
シオンは虚空から隼人のノートを取り出した。指を鳴らすと、それは薬袋になった。
「製法だけはちょっと渡せないな。ごめんだけどこれで許しておくれ!」
袋の中には、白い錠剤がぎっしりと詰まっていた。
「ヒナに渡すんだろ? 一錠で一年はもつ様に細工しといたよ。好きに使ってくれて構わない」
薬袋の重さが、現実味がなかった。
シオンは続ける。
「分かっていると思うけど、その薬は多幸感をもたらす。副作用もない。依存性もない。ただし……」
「ただし?」
「君も見ただろ。満ち足りた人間は何かを成し遂げようなんて考えない。だから、もし君が『空を夢見るヒナ』を救いたいんなら…… いや、叶わない夢なら解放された方がいいのかもしれないな」
この薬を作った人びと ……dr243414たち蓬莱の民は、全員が『ハッピーエンド』を服用して、緩やかに終わりへの道を進んでいる。目的を失ったからではない。
何も望まなくなったからだ。生存のための行動のほかに、何もする気になれなくなったからだ。
その様子を隼人は見ていた。
「分かっている。これを使うかどうか……決めるのはヒナだ」
「ありがとうね……私には、あの子を解放できなかったんだ。本当はあの夢を取り上げることなんて簡単なのに。それをしなかったのは私のエゴなのに。私が『対等』なんて願ったから無駄にヒナを苦しめてしまったみたい」
「それを願えるヒナは優しいな」
「私たち、同じ世界に生まれてたら友達になれたかな」
「さぁな」
そして神様は帰ってしまった。
その後、墨天坑のシオンは青霧島の三崎隼人に出会うことはなかった。
墨天坑の地中奥深く、愚神派の研究所を大停電が襲った。
シオンの箱庭―― w3000機も、動力供給がなくなり操作不能になったのだ。
そのことを、三崎隼人も、米崇ヒナも、知りようがなかった。
墨天坑を、闇が覆う。
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