第16話 夜鷹の夢

 


 教団の一室で、ヒナはキュレーターになる前の夢を見る。


 ヒナは、西大陸北部の渓谷にいた。高山地帯の手前であるこの場所は、いつでも雪が残っているらしく、彼女の足元から体温を奪っていった。

 それでもヒナは歩き続けている。

 昼と夜の境にいるようだ。濃紺の空には明るい星が見えているというのに、低いところにいる太陽はまるで夕日の色をしていなかった。


 ここは観光地ではない。

 ヒナの背負っているリュックサックには、ここから先に進むための装備もそれに耐えうる量の携帯食料もない。


『宇宙は無限に続く。わたしは故郷を離れ、どこまでも進んでゆく。新しい居場所と、生きる道を探しながら』


 ヒナは、好きな小説の一節を口ずさむ。

 足取りは軽く、進んでゆく。

 やがて、渓谷の淵にたどり着く。


 低くなった陽光はその内側を照らさず、ヒナのいる淵だけが美しく明るいままであった。谷底を窺うと、失明したかのようにさえ感じ取れた。

 ヒナは拾った石を谷底へ投げ込む。暗記している地図が正しければ、この下に民家はないはずだ。暗闇に落ちていった小石は、視線より低くなった途端見えなくなった。何かにぶつかる音も、しなかった。空を飛べでもしない限り、戻ってくることはできないのだろう、きっと。


『旅立つものは二度と帰らぬ。振り返ることなどできないのだから』


 また続きを唱える。何度も読んだ本だ。しかし、もう一度読んでおきたかったと少し後悔した。二度と読むことはできないのだ。ここから帰るつもりはないのだから。


 ヒナは、ここから飛び降りる気だった。


 ヒナは愛されて育った子供だった。大きくなったら、何にでもなれると信じて疑わなかった。しかし、年を重ねるごとに、物事を知るごとに、自分は何者でもないと分かってしまった。

 そして、それを受け入れられるほど、彼女の精神は強くなかったのだ。

 ヒナは、夢を見られなくなった。うつろだった。知らないことがあるということに、そして、それを知るのは自分より賢いものだけなのだという考えにおびえていた。図書館で本を読み漁っても、なお知への不信は募る一方だった。これも嘘ではないのかと疑ってしまうのだ。


 対して、フィクションは虚構と分かっているから楽しめていた。

 彼女は、まだ15歳だった。15歳のまま、消えてしまおうと思った。


 西大陸の大渓谷、何もかもを飲み込んでしまいそうな地の底。二度と這い上がれぬ絶壁。ここが最後の場所にふさわしいと、ヒナは考えたのである。


 ヒナは、雪が解けてできたのであろう岩の更地に横たわった。まだこの景色を楽しんでもいいじゃないか、と考えた。

 あの星はどういった名前だったか、と指差した星は、スッと消えた。


 突如、濃紺の空に文字が現れたのだ。


『キュレーター募集

 あなたの力が必要です。全てを知ってみたくはないですか? その代償に、嘘がつけなくなったとしても構わないならば、ぜひ青霧島の教団ソラリスにお越しください。

(なお、希望者以外の方はこのメッセージの記憶が消去されます。)

                     神より』


 何の飾り気も、ロマンも感じさせない文章。美しい死に場所には似合わないような、文体。

 しかし、これが本当だったのなら?

 嘘がつけなくなる代償に、すべてを知ることができるのならば。キュレーターというものになってもいいと思えた。


 文字はすぐに消えたが、メッセージの内容はすべて覚えていた。つまり、自分にはその資格があるということなのだ。


 ヒナは、迷わず山を下りた。麓の古物商で登山装備を売って得たお金で、青霧島までの船をとった。



 青霧島の教団ソラリスに来たのは、ヒナだけだった。

 シオン曰くこのメッセージは毎年流しているが、希望者は少ないそうだ。

 嘘をつかない、シオンに従うという内容の誓いを立てた後、ヒナはすべてを知った。


 あの時知らなかった星の名前も、ヒナの母が昔愛していた男の名も、因幡玲の新刊の内容も、原器檜はシオンが考案したものだということも、三崎隼人の姉はこの年になっても蒙古斑が残っていることも、明日の朝刊も、株取引の仕組みも、今年は青霧島周辺の魚群が薄いことも、この世界がシオンのものだということも。


 すべて。


 それでも、この星の外のことはわからなかった。

 ヒナに残された未知は、宇宙だけだった。シオンにもわからなかった、因幡玲が描いた、宇宙だけだった。


 シオンは、誰も宇宙に行かせてはいけない。それが神としての掟だからだ。

 もちろん、ヒナはそれを知ってしまっていた。

 それでも、ヒナはシオンに逆らいたくないのだ。


 シオンが神だからではない。

 叶わないとしても、彼女こそがヒナに夢を与えた人物で、またヒナを現世にとどめた人物だからだ。

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