第14話' 宇佐八幡宮神託事件(中編)

 孝謙上皇は 再び皇位に返り咲き、以降は称徳しょうとく天皇(第48代)と後世 呼び表されるが、次代の天皇として誰を据えるか定まっていなかった。当然のことではあるが、称徳女帝は独身で子供もいなかった。

 ここで湧き上がったのが、"法王"道鏡への皇位継承である。道鏡は藤原氏ではなく、弓削氏の人物であるが、恵美押勝の乱の翌年 太政大臣禅師となり、さらに翌年(766年)には法王の称号を授かっていた。

 道鏡が かような高位まで上り詰めた理由として、かの女帝の病気を治療したことが起因となり、その寵を受けたことが挙げられる。

 もっと極端な話をしてみれば、かの女帝と道鏡はにあったのではないかとさえ邪推されていた。

 ただ、この件に関して言えば、それは天武朝が断絶したゆえに 悪し様に書かれたものであろう。以前は、かの女帝が 藤原仲麻呂から道鏡に乗り換えたとまで語られていた。


 称徳女帝が"法王"道鏡に皇位を譲ろうと考えたのは、宇佐八幡宮より「道鏡を皇位に就かせたならば 天下は泰平である」との神託があったからだった。

 これを受け、かの女帝は和気広虫の弟 清麻呂を豊の国(大分県)へ派遣。清麻呂が、

「わが国は開闢このかた、君臣の別は定まっている。臣を君主とすることは、未だない。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人を皇位に就けてはならない。」

と前の神託を否定する宣命を大和に持ち帰り 奏上したことで、道鏡即位の目はなくなり、皇室は守られた(宇佐八幡神託事件:769年)。

 その後まもなく、称徳女帝が崩御し、天武系は断絶。天智系が復活し、道鏡は下野国へと左遷された(770年)。

 余聞だが、和気清麻呂は宣命を持ち帰ったときは左遷されたものの、爾後 呼び戻され、戦前は 勤王の忠臣とみなされ もてはやされている。

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