第13話 「応神東征」(前編)

 "初代"神武天皇には、正史『日本書紀』の編纂命令者 天武天皇(第40代)の事績である壬申の乱(672年)を投影したと思しき「神武東征」という伝説が存在している。

 神武は 九州南部の日向から東方に進撃し、畿内 大和を征服しているが、これと類似した征服譚が 第15代 応神天皇の紀伝内にも記録されていた。


 第15代"武神"応神天皇は、八幡神はちまんしんとして神格化されている。八幡神とは 全国の武家から崇敬を集めるだが、例えば、鎌倉にある鶴岡八幡宮は 武家政権樹立の立役者である源頼朝みなもとのよりともゆかりの神社。

 余談だが、鎌倉幕府 第3代将軍 源実朝みなもとのさねともが暗殺されたのも かのやしろである(1219年)。

 八幡神を祀る社は 1万社とも2万社とも言われているが、その総本社は "トヨの国"大分県宇佐市にある宇佐八幡宮。もっとも、八幡神と応神天皇は 元来 無関係であったとも見受けられているが、かの天皇は 確かに 武運の神として持て囃されるだけの武勲というかを有していた。

 応神天皇は その名を誉田別尊ほむたわけのみことという。彼は 第14代 仲哀天皇と神功皇后との間に誕生したが、誉田には少なくとも2名の異母兄がいた。

 仲哀天皇が亡くなると、その異母兄との間でいさかいが発生したが、これに対し、誉田は 母 神功皇后とともに九州筑紫から大和へ東征。誉田自身は未だ赤子であったことから、この伝承の実質的な主役は"聖母"神功皇后であるが、その存在をもって 誉田はこの東征を正当化後押しした。

 その後、誉田は 神功皇后の摂政期間を経て即位。かの皇后の摂政期は仲哀天皇崩御からの約70年間(201〜269年:『日本書紀』)であり、明治時代までは かの女丈夫は 歴代天皇の1人と数えられていた。

 ところで、なぜ第15代 応神天皇らが このとき九州筑紫にいたか,ひいては 大分県で祀られているかについてだが、ここに、"聖母"神功皇后が 4世紀の人物などを勘案される一因となった伝承が関係していた。「三韓征伐」である。

 朝鮮半島の一角を占める高句麗の第19代王 広開土王(好太王)を称える石碑(広開土王碑)には、4世紀後半(391年?)に倭が海を渡り 半島の国々を臣民となした旨が刻まれているが、その伝説は この事実を潤色したものではないかと一部では目算されていた。

 自国防衛のために朝鮮半島に触手を伸ばした一時期、かの伝承 及び かの女丈夫は持て囃されたが、彼らが半島出兵の足がかりとしたのが、山口県から九州北部にかけての地域。神功皇后は 妊娠した状態で、そこから半島に渡り、征討後 還御して宇美うみ(福岡県)の地で 後の応神天皇を出産した。

 爾後、畿内にて不穏な動きが湧き上がって彼らは九州筑紫から大和へと とって返している。

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