第6話' 王朝交代と史書内容の変遷(後編)
私が 天武が王朝交代を正史に掲げていたと考える所以の1つとして、"暴君"の存在がある。もし本当に、連綿と続く天祚一種の王家であるなら、先祖の不名誉なことなど記載するはずがない。
いや、単なる事実だから書き残したとも考えられなくもないが、やはり そこには政治的な思惑が多分にあったと判断した方が良いだろう。その暴虐ぶりは、大陸の桀紂に比肩するものがあった。桀とは、言わずと知れた夏王朝最後の王であり、紂とは"酒池肉林"で知られる殷王朝最後の君主であった。
正史『日本書紀』には、第21代 雄略天皇,第25代 武烈天皇の2人の暴君の記録が残されているが、ひょっとすると、天武の次代 持統も 一旦は 二王朝の交代を受け継いでいたのかもしれない。
第21代 雄略天皇の血は 子の代で絶え、私は この天皇は 天武が先代 天智を投影した存在だと目星をつけているが、第25代 武烈天皇は 第23代 顕宗天皇から その兄 仁賢天皇(第24代)を経て 皇位を受け継いでいた(仁賢の子)。
天武には 天智の異父兄説が取り沙汰されているが、天武の次代 持統にとって 直近の脅威は 天武の長子 高市皇子。私は、天智の娘 持統は "暴君"武烈天皇に 高市皇子を投影させ溜飲を下げたのではないかと推量している。もちろん、そこには意趣返しの意図もあっただろう。
ちなみに、武烈天皇の次の天皇が、第26代 継体天皇。かの王は 武烈天皇に世継ぎがなかったため 越前より招かれた応神天皇5世の孫であるが、その諡は'継体持統'という四字熟語に由来していた。
なお、皇祖神 天照大神の「天岩戸」神話も大方 この時期、もしくは、その後 万世一系がつくられる過程で組み込まれたと私は目算している。日食は 大変不吉な事象であり、元来 最高神に似つかわしいものではなく、天武の亡き後 権力を握った持統が その最高神の記録を再編する中で、おそらくは そこに投影されていた第一次蘇我王朝を、天皇家にとっての暗黒時代として表現したのだろう。
では、壬申の乱の勝者 天武天皇が構想した二王朝の交代は、どのような動機・意味合いで、いかようにして万世一系へと成り変わったのか?
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