第9話 ハツクニシラススメラミコト(前編)

 天武の次代 持統女帝は、対立勢力の正当性を潰すため 万世一系を創成したのではないかと私は踏んでいる。その動機の如何について述べるつもりはないが、それがもたらした恩恵は 他国の歴史と比較すれば おのずと伺い知れるだろう。

 紀元3世紀、洋の東において 約400年続いた漢帝国が滅亡した。その後、魏・呉・蜀の3国が並び立ち、魏のうちから生じた晋が 一旦は中華圏を統一するが、瞬く間に衰退。かの地は再度 混乱に陥り、南北に分かれて対立する時代に突入した。

 その時代に終止符を打ったのが聖徳太子が遣いを送ったことでも知られる隋であるが、いわゆる魏晋南北朝と呼ばれる混沌とした時代は、後漢末の黄巾の乱から勘定すると、約400年にわたって継続した。

 その根源的な理由は 頭1つ抜きんでた存在がなく、同格の者達が自分にも手が届くとして至尊の位に手を伸ばしたゆえだった。

 洋の西 ローマ帝国において、3世紀半ば、約50年の間に 26人の皇帝が誕生するという事態が発生した。その原因の1つとして考えられているのが カラカラ帝の発した"アントニヌス勅令"だ。かの勅令は 帝国全領域に住む全ての自由民にローマ市民権を与えるという極めて近代的な内容のものであったが、これにより ローマ市民権の有り難みは失墜。一説には平等になったことによって、かえって次々と皇帝が目まぐるしく交代する混乱状態に陥ったとも見受けられている。

 この混乱は ディオクレティアヌス帝によって収束されるが、かの皇帝は専制君主政を採用し、自らを神として崇拝をすることを強要した。

 結局、対立者が並び立つという図式が混乱を誘発するわけだが、王朝の継続という既成事実を積み重ねることによって、自らが同格ではない存在であることを周囲に悟らせることによって、戦乱が終結し 戦災は遠ざかっていった。260年の平和の礎を築いた徳川家康もまた、"神君"として祀られ、その後裔が君臨する権威の拠り所となっている。

 第41代 持統天皇の時代、対立勢力が 厳として存在していて 彼女らはその対応に迫られたと私は愚察しているが、持統の時代、いやさ第50代 桓武天皇の時代に至っても、天皇家の権威は磐石なものではなかったのではないかと私は判じている。

 桓武天皇は復活した いわゆる"天智系"の実質的な初代であるが、天武系が断絶したとは言っても、天武の血をひく者達が全く残っていなかったわけではなかった。桓武天皇は その御代に常備軍を解体しているが(792年)、ひょっとすると、その所以は 軍が天武の子孫に味方する恐れがあったからかもしれない。有力な軍事氏族の一つ 坂上氏は東漢氏の後裔であり、古代史の有力豪族 蘇我氏とつながりを有していた。

 桓武天皇はその後、平安京に遷都しているが(794年)、かの都は千年間 天皇のおわす地となり、爾後 様々な困難に見舞われたものの、他国ほどの混乱は見られず、天皇家は断絶せずに 現在に至っている。

 ちなみに、私は 天武天皇は2つの王朝の交代を構想していたと胸算しているが、蘇我氏の登極は 実際にはスポットで2回のみであり、天皇家と蘇我氏,2つの氏族が合流する以前はのではないかと検討している。

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