第5話 天武の素姓と持統の関与(前編)

 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)は、その素姓に疑いを抱かれている。というのは、天武は 大乱の敗者である大友皇子の地位などを歪曲したのだから、自らの素姓も都合よく変造したのではないかとの不審である。

 天武は大乱の勝者であり、その後 正史の編纂を命令。その歴史書は 天武の息のかかった政権の下で完成したものと一般に認識されていた。

 ただ、私は 天武の血統が怪しかったのは間違いないにしても、天武の次代 持統は 天武の意思や思惑を受け継いでいないのではないか、もっと言えば、天武を否定したかったのではないかと愚考している。

 女傑 持統天皇は 皇祖神 天照大神に自らを投影したのではないかと臆説されており、その事実だけでも大変なことだが、だとすると神話において 持統の皇配おっと 天武に比定されるのは、天照大神の妹背いもせである"荒ぶる神"スサノオ。かの神は 天界で大暴れし、かの地より追放されていた。

 おくりなというのは、この時代、生前の業績等に対応して贈られていたが、彼女に贈られた諡号の意味するところは"血統をたもつ"の意。特に、'継体持統'という四字熟語で用いられるが、彼女に この諡が贈られたのは、。持統は れっきとした天皇家の血をひく女傑であり、そして、そこに 天武の遺志と相対する所以があったことが推量された。


 では、天智の娘 持統が 忌避したと思しき皇配おっと 天武天皇の本当の素姓とは一体 如何なるものだったのか? 現在 最も有力視されているのは "天智の兄説"であるが、ならば、その父親とは何者だったのか? 私は、その人物は 古代史の有力豪族 蘇我氏の者だったのではないかと揣摩臆測している。

 天武の次代 持統女帝は大方 途中から最高神の舞台を奪っているが、元々 天照大神として天武天皇が想定していたのは、恐らく第33代 推古すいこ女帝。推古天皇は 日本史上初の女帝として知られているが、かの女帝の死の直前に 日食が起きており、多分 その兼ね合いで、その事象が天照大神の「天岩戸」神話に反映されていた。

 しかして、この女帝の御代は 蘇我氏全盛の時代。天武が その時代を最高神の舞台と考えていたと見受けられることから、かの人物の素姓がうかがえた。

 他にも、壬申の乱で 蘇我系豪族が 彼に協力していることや、乱後 蘇我氏の本拠地 飛鳥で即位したことなどが 天武が かの一族の出身であることの傍証であると私は胸算している。

 因みに、神話自体が 天武より後の代になって創られたとすれば、この説は怪しくなってくるが、だとすると、天武の次代 持統は自らが崇め奉った最高神に、後から自分を上書きしたことになる。しかし、それは おかしい。やはり私は、天武の時代から神話の記述はあって、その記録を面白く思わなかった持統が 後に改変したものと心当てをしている。

 なお、この件については また後で補足する。

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