第2話 壬申の乱

 この国の古代の歴史は、主に7世紀後半に編纂を開始された正史『日本書紀』に準拠している。

 かの歴史書は 第40代 天武天皇の命令により編み始められたが、それが編纂された動機として 最も有力視されていることは、天武が大乱で 時の天皇を弑虐してしまったことだ(672年)。その真実を隠蔽・歪曲するために、天武は歴史の編纂を命じたものと概して臆度されている。

・・大乱の敗者である大友皇子登極の記録は 古くは平安期の文献にも見受けられており、近代 明治になって公式に認定され(1870年) 大友皇子は "弘文"(第39代)という諡を贈られている・・・

 大乱が起こったキッカケとして 正史で語られていることは、第38代 天智天皇が 後継者として 初めは 弟である大海人皇子を立てていたが、後に 息子である大友皇子可愛さのあまり後者を太政官制の最高位 太政大臣という要職に任じ 前者を疎んじたことだとされている。

 その結果として、天智天皇の崩御後、叔父と甥,2の間で 骨肉の争いが勃発。天智の弟である大海人皇子が勝利を収め 即位(天武天皇)、正史編纂を指示していた。

 ただ実際には、この大乱は 当時の混迷する東アジア情勢の中で、この国の今後の行く末 ・方針を決定づけるものだった。そうでなければ、国を二分するような大規模な争いには 発展しなかっただろう。


 壬申の干支とし(672年)に起こったことから、かの大乱は"壬申の乱"と呼ばれているが、この大乱が 初代天皇の事績である「神武東征」に投影されているのではないかと一部では唱えられている。

 正史編纂の中心にいた人物が 自らの実績を象徴的・特別な位置の存在に投射させ 誇示するというのは、に 人間の虚栄心を満たすのにかなうものだった。

 なお、正史『日本書紀』は天武天皇の崩御後(686年)、30年以上経って完成している(720年)。

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