お題「地獄」「奈落」「アビス」

兎角@電子回遊魚

第1話

 「キミにとって一番辛いことはなに?」

 奈落を背に、彼女はそう問いかけてきた。けれど、今となっては返す言葉もない。

 「キミにとって一番辛いことはなに?」

 彼女は再び、そう問いかけてきた。一歩後ずさって。

 奈落までの距離は、数歩分。その先は、終わることのない混沌。秩序とは程遠い、言うなれば地獄。

 見下ろせば、数多の建築物が立ち並び、車や交通機関が忙しなく動く。この高さからではきっと、人間なんて塵芥のようだ。

 手を、伸ばさなければならない。そんなことはわかっている。けれどもそうしないのは、何故?

 「ボクが望む未来と、キミが望む未来。同じ道を進めると思ってたんだけどなぁ」

 諦観交じりの笑顔。目尻には涙を浮かべながら。

 「俺は……俺にとって辛いことは……?」

 わからない。俺にとって1番辛いこと。それは、なんだろう。

 理性が告げる。今すぐ手を伸ばし、彼女を引き留めろと。けれど、心の奥底、言うなればアビス。それは甘美な声でこう囁く。≪彼女を突き落とせ≫

 「あはっ、訊くまでもなかったかな」

 そう言ってまた一歩、後ずさる。

 「ま、待ってくれ!俺は……」

 「キミにとって辛いことは、ボクが一番知ってる。もしそれが為れば、キミが壊れることも」

 彼女は、目尻の涙を拭おうともせず、ただ諦観の笑みを浮かべ続ける。いや―――これは、愉悦?彼女は愉悦の表情を浮かべていた。まるで俺を嘲笑うかのように。―――玩具の分際で、持ち主に逆らうつもりか……?!

 「今すぐこっちに来い。命令だ、面倒な玩具め」

 心の中で沸々と湧き上がる感情。それは秩序とは程遠いモノ。俺を構成するアビスが齎す、地獄。1個の地獄、そう表現するべきか。

 「キミを壊すのは本望じゃないけど、キミがシてくれないから、ボクはこうするしかないんだ」

 「何を訳の分からないことを!」

 そう叫んだ俺は彼女に手を伸ばし、そして。

 「さようなら、一人ぼっちの加虐嗜好癖クン」

 空を切った。勢い余って、足元がなくなって、そして。

 「バカだね、キミは本当に」

 そう嘲る声を最期に、俺の身体は堕ちて行った。

 彼女は玩具だった。壊れても遊べる、最高の玩具。そんな彼女が望んで見せたのが、死ぬこと。

 けれどこれじゃあ、死ぬのは俺じゃないか。

 視界に映る彼女の顔には、身体には、無数の傷が浮かんでいた。その中でも一際目立つのは、半袖から伸びた腕の切り傷。これは、俺じゃない。俺が付けてやった傷じゃない!

 こんなアビス、俺は望んじゃいない。望んでなんかいなかった!!!そして潰れた。

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