第25話 ヤエとお兄とリコ

「わだじが悪がっだがらぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 仲直りじようよぉぉぉぉぉぉぉ!!」

「ちょ、やめ……っ、とりあえず手を離して! ズボンが下がるのよ!」

「嫌だ!! やだやだやだやだっ!! 許じでぐれるまでヤエ絶対離ざないもんっ!」


 俺達の腰をつかんだままローションまみれの床を後ろに滑っていくので、転倒とポロリを避けるために俺達まで仕方なく床に膝を付くしかなくなった。めっちゃ滑るのでお尻も付けるしかなくなった。


「うわぁ……ヌルヌルじゃねーか……」「ジャージだったのが不幸中の幸いね……」


 ディレクターはスク水でさらに準備万端なわけだが。ホント意味分からん。何でそんな泣いてんの? お前デジモンの最終回のバタフライのとことかで大爆笑するじゃん。古田の引退試合の最終打席でも日本中でただ一人ヤジとか飛ばしてたじゃん。日本文理の九回ツーアウトからの猛攻中に焼きそばとか食うじゃん。そういう時俺とリコが泣いてんの見てさらに笑い崩れて膝打ち付けてそこで初めて泣くじゃん。

 お前は、自分が痛い時にしか泣かないような奴だろ。


「うぅうう……知っているかい、お兄リコちゃん。ローションまみれとはいえ、スク水でフローリングを盛大に滑ってくるのは痛いんだぞ……これ後処理どうするんだ……考えると頭が痛い……うぅうううっ、許じでぐれよ二人ともぉぉぉ!」


 普通に自分が痛くて泣いてるだけだった。


「そんで何最後にしれっと謝ってんだよ」「序盤普通に話せていたわよね。その濁点意図的に付けているわよね」


 まぁ痛いだけにしては涙の量が尋常じゃないのは確かだけど。


「てか久吾、あんたは何やってたわけ? ヤエちゃんとどっか消えてったと思ったら……」


 俺達の後ろから華乃が心底呆れたような声で問いかける。久吾はさっきから何度も立ち上がろうとして滑って立ち上がれず、結局諦めたのか寝転がったまま、


「ヤエっちゃんがお兄とリコっちゃんに許してもらいたいから協力してくれって泣きついてきて……て言ってもオレだってお兄達があんなに怒ってるの見たことないですから……謝罪の準備のためにとにかく駆けずり回ってたんです」

「何で謝罪の準備でスクール水着にローションなの? バカなの? ポン闇なの?」

「知らないっすよ! この人、仏壇にすら頭下げたことないんですから! 見た目聖母なくせに中身が信長なんです! 謝罪の方法なんて何も知らないんです! 真っ先にATM行こうとしたの見てドン引きしたんですから! そもそもこの時間やってるコンビニなんて車で片道四十分かかっちゃいますし……だから仕方なくオレが家までバイク飛ばしていろいろ集めて戻ってきたらなぜか水着にお着換え中だったんですよ! オレちょっといろいろ見ちゃったんですからね!? つーか何であなた達はすぐここに戻ってくるんですか!? もう帰っちゃったかもとか思って探し回ったんですよ!?」

「あ、そう……で、あんたはバイク飛ばした結果そのお菓子の詰め合わせを持ってきたってわけ?」

「文句あるんすか!? ヨックモックですよ!? オシャレじゃないっすか! あなたも昔から好きでしょう! 前に高見さんちから貰ったやつが奇跡的に半分くらい残ってたんです! いちゃもん付けるならあなたは食べないでくださいね!?」

「あ、それ賞味期限昨日までだから。てか箱にローション付いてんのヤダから普通に。缶のやつならよかったのに。マカダミアのやつだけちょうだい」

「それはもうないです! てかどうせあなたが全部食べたんでしょう、オレだってあれ食べたかったのに! はぁ……まぁ、そういうわけですから、お兄、リコっちゃん。茶化さずにヤエっちゃんの謝罪を聞いてあげてください。意味不明ですけど気持ちだけはマジなんで」


 久吾がそう頭を下げ(寝転がりながらだが。)、蜂巣綾恵もぎゅうっと俺達にしがみつきながら必死な様子で謝罪の言葉を繰り返してくる。だが、


「いや……別に謝ってほしいわけじゃねーからな、俺達は。そんなもんいらん。言っただろ、二度と俺達の前に現れんなって。それだけを守れ」

「そうね。謝られても困るわ。もうわたし達とあなたの関係は終わったの。いい加減離して。訴えるわよ」


 そうなのだ。許すも何もないのだ。俺とリコはもう、こいつと関わりたくないだけだ。こいつとの過去も何も全てを忘れて、こいつとは一切関係なくこれからも生きていく。俺達が求めるのはそれだけだ。


「お兄、リコっちゃん、それはちょっと……オレからもお願いします。悪いのはヤエっちゃんだけじゃありません。オレだってお兄やリコっちゃんに酷いことたくさん言ってきちゃいましたし……どうしても照れくさくて……お兄とリコっちゃんをそんなに傷つけてしまっていたなんて気付かなかったんです。本当にすみませんでした。ヤエっちゃんとのこと、もう一度考え直してもらえないでしょうか。ヤエっちゃん、高層ビルばっかの大都会で競争社会に揉まれて、上ばっか見上げなくちゃいけなくて、土に引かれた大事な一線が見えなくなっちゃってたんですよ。夢をつかむためにやり過ぎてしまったんです。どうかバカな弟の土下座に免じて――」

「嫌だぁぁぁっぁぁぁあぁぁ!! お兄ぃぃぃいっぃ!! リコちゃぁぁぁぁぁん!! 絶交なんてやだよぉぉおぉぉぉ!! ずっと五人一緒じゃなきゃ嫌なのっっっっっ!!」

「「えー……」」


 こいつ、久吾がカッコつけてる真っ最中に……。


「番組も配信しないから!! データも全部消す!!」

「え……? いやお前、そんなことしたら……」「そうよ、もう上に企画は通ってしまっているのでしょう? あなたのキャリアが……」

「そんなものいらないっっっ!! 会社辞めるっっっ!! テレビマン辞めるぅっっっ!!」

「な……っ! バカかお前!? ずっと頑張ってきたんじゃねーのかよ!?」「そうよ、村も出て一人でずっとやってきたのでしょう!? あんなに欲しがっていた地位も名誉ももう少しで手に入るのよ!?」

「そんなものいらないっっっ!! 地位も名誉もお金もいらないからぁぁぁ!! 私は東京で成功して君達に自慢したくて、昔みたいに尊敬されたくて、ずっと君達に憧れてもらえるお姉さんでいたかっただけなんだよぉぉぉっ!! やっぱお金はちょっとほしい」

「お前……」


 ヤバい。ちょっと揺れてしまった。ていうかな、俺達はずっとお前に憧れてたんだぞ。こんな村からすげー奴が出たって、本当に誇りに思ってたんだ。

 もはや俺達に抱きつき、胸に顔を埋めてくる蜂巣綾恵。その温もりに、頑なになっていた心もほどけてしまって。やべぇ、このままだと……。


「離れ離れなんて嫌なの! 君達はずっと村にいるから知らないんだ、東京で独りぼっちになる寂しさが!」

「なんかちょいちょいナチュラルにディスってくるな」


 やっぱ全然ヤバくなかった。全然心とか揺れてなかった。絶対に許さない。


「うぅ……すまない……君達を前にするとどうしても照れてしまってな……言わなくても伝わっていると、勝手に都合よく思い込んでしまって……でも伝わっていないのなら言うぞ! 好きだ!! 大好きなんだよ、お兄とリコちゃんと華乃ちゃんと久ちゃんがぁぁぁああぁっ!!」

「「…………っ!!」」


 おい。おい、おい。おいおいおい。何だよそれ。ふざけんなよ。ずりーだろ、それ。


「好きだ好きだ大好きなんだっ! 好きっ! 好きっ! 好きっ! 好き好き好き好き好き好きっ、大好きっ! お兄とリコちゃん大ちゅきぃぃぃぃ!!」

「そ、そそそそんなこと言われても騙されねーからな俺は!」「そうよっ、そんなに好っ、好きだって言うなら何でわたし達に対してあんなことを……!」

「ごめんってばぁぁぁぁ! だってお兄とリコちゃんが優しいんだもんっ!! 君達の溢れる愛情に甘えちゃったんだもんっ!! 私のこと大好き過ぎてずっと甘やかしてきた君達だって悪いんだからなぁっ!! これからも甘やかしてよぉぉぉぉ!! 頭なでなでしてぇぇぇぇっ!!」

「な……っ、ななな……っ! お前、何言って……!」「あなたのことなんて、す、すすす好きなんかじゃ……っ!」

「嘘だ嘘だ嘘だっ、お兄とリコちゃんは絶対私のこと大大大好きだもんっ! だから戻ってきてくれたんだもんっ!」

「す、好きなんかじゃねーし!」「そうよっ、わたし達はあなたのことなんて……っ!」


 そうだ、こんなことで全部水に流しちまうなんてことできるわけがねぇ。あんな仕打ちを受けといて、「好き」って言われただけで許しちまうなんてどんなチョロ人間だよ。俺達はこんな奴のこと好きなわけねーんだから。

 ヤエはいつも俺達のことを都合のいい手駒のように扱って、物心ついた時にはもう俺とリコを引き連れて王様みたいだったし、ヤエが五歳の春だったか、突然村を探検するとか言い出して俺とリコを隊員として引き連れて山に入ったあげく迷子になって村中大騒ぎになってたのに俺達三人はヤエのおかげでただただ楽しかっただけで迷子の自覚とか全くなくて、真夜中にしれっと家に帰ったら村中の大人に俺とリコまで叱られまくったし、あと小二の夏休みの自由研究なんてアサガオの観察をする俺とリコの観察日記を提出して自分だけ入賞して商品の図書券で俺とリコに買ってくれた漫画が島耕作だったし、そんなんなのに小さい頃の華乃と久吾が誰に一番懐くか勝負みたいになってた時はなぜか二人ともヤエに懐きまくってたし、そういや華乃の「お兄」って呼び方を真似して村中に広めやがったのもヤエだったし、そうだ、小五の時、三人で毎晩校庭に忍び込んで二か月かけて勝手に野球場作ったのも元々ヤエの思い付きに巻き込まれただけだったのに俺とリコまでめっちゃ怒られたし、あんな広い球場作ったのに結局野球やる時はヤエが内角攻めしてきてデッドボール当てられまくって乱闘になってばっかだったし、そのくせ俺の部屋の秘蔵本探し大会とか勝手に開催する時とかは厳格なルール作ってくるし主催者自ら三年連続優勝とかしやがるし、俺やリコの反抗期が激しかった時もどんなに突き放しても空気を読まずにめちゃくちゃ面白がりながらウザ絡みしてきて反抗することのバカバカしさを思い知らされたし、そういうとこあるからうちやリコの家族とかからも何だかんだ自分の子どもよりも信頼されてるし、俺とリコの高校受験の勉強見てくれてた時もオリジナリティ溢れる罰ゲーム付きのスパルタ方式だったし、それで実際成績は上がったのに結局高校には入れなかった俺達にお姉さん面して頭ナデナデとかしてきたし、逆にヤエの大学受験の時はサボったりしないようにと毎晩深夜まで監視役として付きっ切りにさせられたし、結局いつも三人で大喜利大会とか始めちまってそのまま寝ちゃったりしてたのに普通に一流大学に合格して俺達を置いてっちまうし、引っ越しを俺とリコに手伝わせた挙句、寂しいとか言って泣きついてきて二週間くらい抱き枕役として泊まらせられたし。

 ああ、クソっ。一つ一つあげてったらキリがねぇ。いっつもいつもヤエの後先考えない行動に巻き込まれたせいで損して泥だらけになってすり傷切り傷作りまくって親や先生や近所のおっちゃんおばちゃん達に叱られまくって、そんで反省したふりしてシュンとしたまま体育倉庫まで来て、そこで初めて三人で大爆笑すんだよな。リコがしおらしい顔作りすぎるせいで説教中にヤエが噴き出してそれにつられて俺らも笑っちまってさらに怒られるってこともよくあったけど。

 ホント笑ってる時も泣いてる時も怒ってる時もいつも一緒にいて、とにかく二十五年間ずっと俺とリコはこいつ振り回されてきた。ヤエ。ヤエ。ヤエ。ヤエ。ホントこんな最低最悪な奴のこと――


「え……じゃ、じゃあまさかお兄とリコちゃん、本当に私のことを嫌いになってしまったのか……? 本当にお別れなのか……?」

「そんなわけねーだろ!! 大好きに決まってんだろアホぉぉぉぉ!!」「一生大好きよ!! ヤエとわたし達は永遠に大親友よぉぉぉぉ!!」

「うわぁっぁぁあああぁぁぁんっっっ!! お兄ぃぃぃぃいっぃっ!! リコちゅわぁぁぁぁぁぁんっっっ!!」


 ヤエのことが好きだ。ヤエも俺達のことが好きだ。そんなこと言わなくても言われなくてもずっとずっと分かってた。でも言ってみたら言われてみたら、やっぱりすげー実感できる。自分たちがめちゃくちゃ幸せだって。


 堤防が決壊したみたいに涙がドバドバ溢れ出てくる。気付けば、三人でワンワンと号泣しながらギュッと抱き合っていた。めっちゃヌルヌルする。


「ヤエ、お前結局何で水着なの……? 何でローションぶちまけてんの……?」

「お兄とリコちゃんが笑ってくれると思って……うぅ……仕方ないだろう、他に何も思いつかなかったんだ。君達こういう下品で分かりやすい笑いが好きだからな。オシャレでウィットに富んだユーモアは理解できないから……私が酷い目にあっているのが一番のツボだもんな」


 やっぱ絶交しようかな。ここまで正確に性格を把握されてると怖いし。実際こういう状況じゃなかったら絶対爆笑してたし、てか結構噴き出しそうでヤバかったし。リコに至ってはは口モニョモニョさせてたし。

 でも、すげーヤエらしいよな。考えるより先に体動かして、がむしゃらに突っ走っちまうとことか。


「何を見せられてるんすかオレ達は……ヤエっちゃん、もはや見た目しずかちゃんのママで中身ジャイアンじゃないっすか。まぁ仲直りしてくれたんならいいんすけど」

「まったく、久ちゃんは素直じゃないなぁ相変わらず。ほら、君もこっちに来て抱き合おうではないか。久ちゃんのことも大好きだぞ。ちゅっ」

「俺も好きだぞ久吾。ちゅっ」「わたしも好きよ。ちゅっ」

「オレはヤエっちゃん達のそういうノリ大っ嫌いです」

「まったまたー、さっき私のお着換えを見て興奮していたくせに。どうせ私のナイスバディーをおかずに爆シコりするのだろう? ローションまだ少し余っているから持ち帰っていいぞ。その代わりヨックモックちょうだい。高級寿司よりヨックモックが好き」

「絶対シコらないですし、ちょっとしか見えてないですし。もう記憶から抹消しましたし」

「なんだなんだ、そんなにツンケンして。昔はいつも『大きくなったらヤエお姉ちゃんと結婚するー』と言ってくれていたくせに。で、いつ入籍する?」

「ああああああああああああああ!!」


 久吾が耳を塞いで崩れ落ちる。床についた両肘を滑らせて頭を打ち付けていた。痛そう。


「ヤエが上京する時、地球上でただ一人久吾だけが号泣していたものね。ご両親ですらうちの親とかとの世間話に夢中でまともに見送りしていなかったのに」


 まぁヤエと久吾は本当の姉弟みたいなとこあったしな。気恥ずかしいけど俺らにとってもそうだし。憎まれ口叩きながらも、結局久吾も俺達のことが好きで好きで仕方ねーんだ。あ、きょうだいと言えば、


「そういや澄香と大町くんはどこ行ったんだ?」


 いかん、また忘れていた……。澄香にちゃんと謝んなきゃなんねーのに。それに中学生がこんな時間にフラフラしてたりしたら危ねぇ。俺達は中学ん時フラフラしまくってたけど。


「ふむ、確かに心配だな。というか天志達に何かあったら私が叔母さんに怒られる。マネージャーはもう寝ているし帰る術はないはずだから校内にいるとは思うが……手分けして探そう」


 ヤエの提案で各々散らばろうとしたがローションのせいで一人ではまともに立ち上がることもできず、危ないので皆で固まって探索することにした。いやマジでヤベェなこのヌルヌル。


「ちょ、華乃も見てねぇで手伝ってくれよ」


 身を寄せ合ってそろりそろりと歩を進める俺達四人を、倉庫の戸にもたれかかって眺めていた華乃。俺が助けを求めると、やっとため息をついてこちらに来てくれた。


「悪ぃ、助かる。ヌルヌルになってねーのお前だけだからな」

「バッカみたい。いい大人が茶番劇して」


 わちゃわちゃとはしゃいでいる三人の後ろで、俺の隣に立つ華乃が呟く。


「そんなことで一件落着みたいなふりしてさ、一番の問題が何も解決してないから。うやむやにしてたら結局また皆を巻き込んで同じようなこと繰り返すよ。いい加減ちゃんと終わらせなよ」


 冷え冷えとした声。冷え冷えとした目。血の繋がった妹だけは、卑怯者の兄を絶対に逃がしてはくれない。


 リコが気まずそうな顔でこちらを振り返り、すぐに目を背けて体育館から出ていった。

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