第26話 お兄と澄香
「おぼっ、ぐぼっ、やめて、許して……あばっ、ぐがっ」
「許すわけっ、ないでしょうっ、死ねっ、死んだらっ、許しますっ」
「あばっ、うぶっ、えごぉっ」
澄香と大町くんは教室にいた。澄香が右手で大町くんの首をつかんで壁に押し付け、左手で腹にグーパンを入れまくっていた。えー……。
「澄香、一旦ストップ。大町くん死んじゃう」
腕をそっとつかんで暴行をやめさせると、澄香はビクッとしてから恐る恐るといった感じで振り返り、
「お、お兄さん……皆さんまで……あ、いえ、これは違っ……って何で綾恵さんスクール水着姿でヌルヌルしているんですか!?」
「落ち着いてくれ澄香。俺達の諍いを手打ちにするために必要なことだったんだ」
「田舎の風習怖っ! お兄さんも何かヌルヌルしていますし! その奇習を追ってドキュメンタリー番組にした方がよっぽどヒットすると思いますよ!? 放送出来ないかもしれないですけれど!」
何か妙な勘違いをされたっぽいが話がややこしくなりそうだから今は置いておこう。そんなことよりもまず澄香には言わなくちゃならねぇことがある。
「澄香、すまん! 年齢のことずっと騙しちまっていて……」
「……いえ、構いません。確かに驚きはしましたが、嘘をついていたのは私も同じですから。そんなことよりも……」
言葉を尻すぼみにして俯いてしまう澄香。やはりおっさんと恋愛関係になりそうだったことが相当ショックなのだろう。本当に大変なことをしてしまった。
「本当にすまなかった……気持ち悪かったよな……許してくれなんて言わない。てか贖罪の方法なんて俺にはないし……せめて君が今回の出来事を忘れられるよう、全力で協力させてくれ。約束する。もう二度と君には近づかない。そうだ、番組も配信されないことになったんだ。どうか、君が一日でも早くこんな気持ち悪い男を忘れられるように――」
「忘れません! そんなこと言わないでください! お兄さんが何歳だろうと、私はお兄さんのことが好きなんです!」
「え――い、いや、澄香な……」
マ、マジかよ……年齢を知ってもなお俺のことを……そんなこと言われちまったらやっぱり……何て考えてる場合じゃねぇ。澄香は十三歳だぞ? そして何より俺にはまだリコとのことが……。
「あー、お兄。まぁ澄香さんもこう言っていることだし、まぁ何というかわたしはまだ応援できるというか」
リコが俺の方をチラチラしながらゴニョゴニョと言ってくる。いやなぁ、そんなわけにいかねーだろ。それに俺はもう澄香のことをそういう風には見ていない。たぶん。まぁさっきみたいにアレを言われてしまうと揺らいじまうのは事実なんだが……。とにかくもう、全部終わりにするんだ!
「澄香、君は恋に恋しているだけなんだ。親族以外の大人と生活するのなんて初めてだったから、アラサーの男の雰囲気に勘違いしちまっただけだろう」
「違います! 恋愛に酔ってるとか、大人の雰囲気に惹かれたとかでは決してありません!」
「いやマジで俺なんてどこにでもいる並以下のおっさんで、」
「年齢なんて関係ないんです! 私は……」
「いやでも、」
「私はお兄さんの顔が好きなだけですから!」
「いやとにかく俺は――って、えー……」
顔……顔……? え、顔が好きなだけ……? え、そうだったの……?
「私も全てを正直にお話ししますから、お兄さんも全てを教えてください! もう嘘は嫌なんです! 私が高校生のふりをしてまで恋愛リアリティショーなんかに参加したのは本当は綾恵さんのせいなんかではなく、単にイケメンの彼氏が欲しかったからなんです!」
そ、そうなのか……まぁ、でもむしろそれが一番正しい参加動機なのかもしれないな。初対面の人間と会ってすぐに恋愛しなくちゃならない状況じゃ、見た目ぐらいしか判断基準なんてないわけだし。そしてそれは全然悪いことじゃないと思う。恋愛相手なんて第一印象でパッと決めてしまった方が案外上手くいったりするのだ。
ダラダラと長い時間曖昧な関係を続けていても、いろんなものが拗れて絡まって、身動きがとれなくなってしまうだけだ。相手のことがよく分かるようになっていくのと反比例するように、自分の気持ちが分からなくなってしまうのだ。
「うっわー、それはさすがの僕も引くよ。いくら何でも浅はかすぎるね、我が妹ながら。あー、でも確かにお兄くんの顔って君の好きなタイプにドンピシャだもんね」
「誰に許可を受けて喋ってるんですか? 黙れ、死ね、妹じゃないです、死ね」
「うごっ、おぼっ」
「澄香、それ以上はマジで大町くん死んじゃうから……」
「死ねばいいんです、こんな奴! 聞いてください、お兄さん! リコ先輩も! こいつがあんなことをしでかしたのは、綾恵さんにおっぱいを触らせてもらうという見返りがあったからみたいなんです!」
「「えー……」」
俺もリコもドン引きしてしまう。いや大町くん以上にヤエの倫理観がやべぇだろ、それ。テレビマンとしても人間としても。どうせその取引持ち掛けたのもヤエからだろうし。マジでそこまで狂っちまってたんだな……東京怖ぇ。
「ち、違うぞ! お兄もリコちゃんも誤解しないでくれ! 服の上からだぞ! 生おっぱいなんて未来の旦那さんにしか触らせてあげないもん!」
「そういう問題じゃねーよ」「生おっぱいとか言わないでくれない?」
「そもそもまだ触らせていないしな! 番組がお蔵入りになって私も引退を決めた以上、会社からの報酬は出ても私個人のおっぱいボーナスはなしだ! だいたいお兄こそさっきスク水の私とぎゅぅーっと抱き合っておっぱいと密着しまくりだっただろう! 人のこと言えないぞ、このドスケベファーマー!」
いや今さらお前の胸にスケベな感情湧くかよ。ガキの頃さんざん一緒に風呂とか入ってじゃれ合ってただろ。まぁそれを言ったらそんなさんざんじゃれ合ってきたはずのリコにあんなに欲情してしまっていたのは何だったんだって話なんだが。
「そんな……っ、お兄さん……綾恵さんにまで……っ、ヤリチンさんだったんですね……っ、でも顔が好きだから好きです……っ、綾恵さんは死んでください。マジで死んでください」
「死なないぞ。今日からニートだからお兄やリコちゃんのお手伝いして楽しく暮らすんだ。まぁ澄香の『死ね』は『好き』の裏返しだと分かっているけどな。中学生だけあってツンデレ具合は華乃ちゃんや久ちゃんと張るレベルだもんな、君は。番組への参加を承諾してくれたのだって、本当は大好きなお兄ちゃんと久しぶりにお泊りする口実が出来たからなんだろう?」
「は――はぁ!? 私がこいつのことを大好きって――何デタラメ言っているんですか、綾恵さん!? お兄ちゃんじゃないですし!」
「いやだってもっと小さい頃はいつも『お兄ちゃんと結婚するー』と言い張っていたじゃないか。つい五、六年前までの話だろう? 動画もあるぞ」
「ああああああああああああああ!!」
澄香が耳を塞いで叫びながら崩れ落ちた。久吾のケースと全く同じ反応である。え、そんなに小さい頃結婚の約束とかしてたのって恥ずかしいの? 俺なんてむしろガキの頃にそういうのしとけば、言い訳みたいなものが出来たんじゃねーかと、後悔すらしてるんだが……。
「最悪です! そんな黒歴史を、しかもお兄さんの前で暴露されるなんて……っ! 違うんです、お兄さん! これは昔の話で……っ!」
「あ、ああ、そうなんだ。それにしても何でそんなに仲悪くなっちまったんだ? やっぱりご家庭のこととか……」
まずい、踏み込みすぎたよな……もう関わらねーとか言っておいて……。
「いえ、家のことは関係ありません。私もこいつも両親とは上手くやってますし。こいつのことは、もうただただ単純に嫌いなだけです! 理由なんてないです!」
「えー……」
「それはまぁ確かに昔は仲良かったですよ! でもずっと一緒に暮らしていたらどんどんムカつくことが増えていったんです! すぐに嘘つくし、性格悪いし、エロいことばかり考えてるの気持ち悪すぎるし、魚の食べ方汚いし、家事とかやらないし! でもそんなことはまだいいんです! とにかく何が嫌って……本当にもう理由なんてないんです! とにかく同じ空間にいたくない! 嫌い嫌い嫌い! 嫌いなんです! 本当に世界一最悪の兄です! 死ねばいいんです! あ、いや兄じゃないですけれど!」
頭を掻きむしりながら叫ぶ澄香。そんな妹を、大町くんは呆れ果てたように見下ろしている。生理的に兄を嫌悪する妹と妹にまるで興味のないような兄。
ああ、そうか。そうだよな。
俺は思う――すげーよくある話だな、と。
兄妹だとか幼なじみだとか、長い時間一緒にいたらそりゃ問題の一つや二つ抱えていて当たり前だ。そもそも相性が良くて一緒にいるわけでも何でもなく、置かれた環境のせいでお互い一緒にいざるを得なかっただけの関係なんだから。
まぁでも難しい話じゃない。問題の種類は人それぞれだけど、対処方法は大まかに言えばたいてい同じだ。
だからたぶん、俺は今、大人面してうっすい薄い説教をするべきなんだと思う。だって俺は大人なんだから。
「なぁ澄香。大町くんのこと嫌いってのは分かったけど、でもまぁ大げさには言ってるだろ? 本気で死んでほしいとか不幸になってほしいとか思ってるわけじゃねーよな」
「そ、それはまぁ『死ね』っていうのは本気じゃないですけど……どこかで元気で幸せに暮らしていてはほしいと思いますよ……?」
「ならちゃんと言葉にして伝えといた方がいいと思うぞ、大切に思ってることくらいは。照れくさいのは分かるけどな」
詳細は違えど、俺達と同じようにこの二人も抱えているものがある。俺達は放っておいてしまったから、見て見ぬふりをしてきてしまったから、雁字搦めになっちまったけど、早いうちにちゃんと向き合っておけばそんなに拗れないで済むだろう。
「大町くんもな。お互い言われなくても分かっちゃいるんだろうけど」
「……何かお兄さん、親戚のおじさんみたいです……相談に乗ってくれるのなら、そんなに淡々と一般論を教えてくれるのではなく、もっと私に寄り添って私だけのためのアドバイスをしてほしいです。これではまるで……」
「まぁ、俺はよくて君の年上のお兄さんでしかないからな。澄香のことをちゃんと知ってるわけでもねーし、外野から薄っぺらい一般論を語ることしかできねぇよ」
「親戚のおじさんって義雄さんのことかい? あの人つまらないよなぁ。昔お兄達とドッキリ仕掛けた時も反応がイマイチで、」
「ヤエ、俺今ちょっとカッコつけてるから」
「お兄さん……っ、何で、何でそんな突き放すようなこと言うんですか!? 私はお兄さんが何歳だって気にしません!」
悲愴に顔を歪めて今にも泣き出しそうな声で訴えてくる澄香に、心臓を締めつけられる。最低だ。ホント最低な男だ。それでも、どんなに最低な男になってでも、ちゃんとした大人でなければならない。
「俺は気にするよ。年齢は関係ある。子どもとは付き合えない」
「――――」
「でも……一つだけ俺だから言えることを言うとするなら……澄香の言葉には力がある。ホント、大の大人を舞い上がらせちまうくらいに。だからちょっとした一言だけでも、大切な人に掛けられるようになれるといいと思う。……好きって言ってくれて嬉しかった」
「…………ハハ……ハハハ……。酷いです。本当に酷いです、お兄さん。か弱い乙女を傷つけて」
「ごめん。ホント最初から最後まで君を騙して裏切ってばかりだったな。でももう嘘はないから。小うるさい説教になっちまったけど、心の片隅にでも留めておいたくれたなら、おっさん嬉しいかな」
「…………」
俯いたまま何も答えてくれない澄香に、深く深く頭を下げる。誠実な対応というより他人行儀な態度になっているだろう。さんざん傷つけて傷つけて傷つけまくっておいて何の償いもせずに、あとはもう他人になって立ち去るだけ。それでいい。それ以上のことなんてできないんだから。俺はもう最低最悪のことをしてしまって、それを取り返す方法なんて存在しない。慰めを与えるような資格もない。最低最悪な男のまま消え失せるのが最低最悪な最善策なのだ。
「天志くん、いろいろとごめんね。あと、わたしからもお願い。澄香さんにちゃんと大切に思ってること伝えてあげてね」
「え、は、はい……いや僕の方こそすみませんでした……酷いことをしてしまって……」
大町くんがお腹を押さえながら心底気まずそうにペコペコとする。大丈夫かな。アザとか出来てない?
「ううん、いいわ。嘘でも嬉しかったもの。イケメン男子にチヤホヤしてもらえて」
きっとそこに嘘はないんだろう。リコの穏やかな微笑みを見てそう思う。
「じゃあ、もういい加減今日は寝ろよ、二人とも。成長期だろ。あ、華乃と久吾もな。若者が夜更かしすんな」
「フフ、お兄、本当におじさんみたいね」
リコがクソつまらないことを言ってくる。ああ、必死に余裕ぶってんだろうな。分かる。これから俺達がやらなきゃいけねぇことを考えると、そうでもしてないとまた逃げ出してしまいそうだ。
俺とリコは大人として、せめて澄香や大町くんの見本になんねーと……とか別に見せるわけでもねーのに、そうやって言い訳にさせてもらわねぇと行動もできないだけなんだが。
ホント情けない。情けねぇけど、これが最後のチャンスかもしれないから。もう今日やるしかねぇ。
「俺達はちょっと散歩でも行くか」
「そうね。すっかり目も冴えてしまったし」
リコと目も合わせずに言葉を交わして、教室の出口へと向かう。ヤエが「え~、もうヤエも眠いー。アラサーだけどまだ成長期だもん。お兄とリコちゃんと一緒に寝るー」と駄々をこねているが無視した。
「お兄さん」
「ん?」
振り向くと、その澄み切った声にはとても似つかわしくない、人形のような無表情で澄香は俺を見つめ、
「嘘つき。やっぱりまだ嘘ついていたんじゃないですか」
「――――」
身の毛がよだつという感覚を人生で初めて知った。
身体が動かない。何の抑揚もない澄香の言葉に、俺は悲鳴を上げることさえ禁じられてしまった。もし澄香が今その右手にナイフを握っていて、そのままゆっくりゆっくり近づいてきたとしても、俺はきっと心臓を貫かれるまで一歩も動けはしないだろう。
「――――うふふ。冗談ですよ♪ どうせそんなことだろうって最初から分かっていましたもん。頑張ってくださいね、お兄さん」
「あ、ああ……」
にっこりと笑って、からかうように言ってくる澄香。いやマジでやめてくれって……てかいろいろと鋭すぎるし……やっぱこの子ホントは大人なんじゃねーの……?
「でも、諦めませんから。五年かかっても十年かかっても、お兄さんと結ばれてみせます! 略奪愛とか全然抵抗ないんで。あ、何ならそれを綾恵さんにドキュメンタリーにしてもらってもいいですよ?」
「いや無理だ……もう年齢とか関係なく、君は怖すぎて無理。絶対一生付きえない……」
同じ過ちを繰り返さないためにもはっきりと拒絶してみせたが、澄香はニコニコと微笑みながら「せいぜい頑張ってくださいっ♪」と返してきた。
いや怖ーって、マジで……。
ああ、何が傷つけまくっただよ。この子を心配するとか完全に自惚れだった。完全に見くびっていた。この子はそんなタマじゃない。俺が思ってるよりもずっとずっと強い女の子だ。
なぁ、やべーぞ、お前。
未練を残させないためにもキッパリと振る? 大人としての責任を果たす? 情を見せずに黙って立ち去る? 澄香のために最低最悪な男になる? 何カッコつけてんだ。
俺はただただ自分自身の身の安全のためだけに、美麻澄香から全力で逃げ出さなければならない。あーあ。
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