第9話 ルールは決まらない

「あの……お味、どうですか?」

「ちょーうめぇ」


 語彙が死んだ。


「よかった……」


 ほっ、と胸を撫で下ろす若菜を尻目に、三澄は魚の身を一欠片口に運んだ。優しい塩味と肉の旨味が、舌を刺激してくる。


 久しぶりの、美味しいと思えるご飯。

 バイト先の賄いがあるため、味の良いものは定期的に食べている。だが、スーパーの惣菜のような、機械的に量産されているものであるという感覚、そして、時間に追われているという事実が、食事をどこか作業染みたものに変えていたのだ。……作ってくれるキッチンの人たちには、大変失礼なんだけれども。

 だから、こんなに安心するような食事は、本当に久しぶりだった。


「……ん? 食べないのか?」


 一心不乱に食べている途中、ふと、顔を上げると、若菜がぼうっとこちらを見ていた。


「っ……、いえっ、食べます」


 慌てて視線を落とし、箸を動かし始める若菜。


「なんかあった?」

「いえ、特に何も」


 どこか取り繕うように、首を横に振った。


「ん、そっか」


 それきり、会話が終わる。

 残ったのは、食器同士の擦れ合うカチカチという音だけ。

 美味しいはずの料理も、こう気持ちが落ち着かないと、満足に味わえない。


「あー、そうだ、これから一緒に暮らすにあたってさ、ルールみたいなのを決めておかないといけないよな」

「…………ルール?」


 込み入った話になると思ったのか、若菜が箸を置いた。


「ああ、食べながらでいいよ。そんな構えなきゃいけない話じゃないし」

「そうですか?」


 まだ微妙に疑ってそう。


「ルールつっても、そんな仰々しいのじゃなくてさ。ほら、やっぱり、トラブルとかってあるかもしれないだろ? 俺たち、お互いの事何も知らないんだし。だから、先に話し合っておかないか?」


 特に、三澄たちは異性同士だ。本来なら、こんな関係性で共同生活を始めるなんて有り得ない。準備を念入りに行っておくのは、むしろ当然と言えるだろう。


「それと役割分担も。炊事、洗濯、掃除……とか色々。こっちは早めに決めとかないと、今日明日にも支障が出始めるな」


 ここで一旦、口を噤む。料理に関しては、分担せず、一人一人で勝手に作って勝手に食べるっていうのも出来るだろう。非効率だし、寂しいけど。

 すると、それまで黙りこくっていた若菜が、意を決したように口を開いた。


「私に、家事は全て任せてもらえませんか」

「……え、全て?」


 流石に予想外過ぎて、聞き返してしまう。


「はい、全てです。お世話になるんですから、それくらいは」

「……」


――家政婦を雇った覚えはないんだけどな……。


 三澄は、収容所送りという不自由から救うために、彼女をこの家に置くのだ。この家が収容所になっては意味がない。

 だが、若菜の目がやけに真剣で、返答に窮した。


「それに学校と……バイトも、かなりされているんですよね?」

「それは、まあ」


 痛いところを突かれた。

 真島あたりから聞いたのだろう。シフトを入れすぎないよう注視してくれとか、言い含められているのかもしれない。


「なら、時間的余裕がある私が家事をするのが適当では?」

「いや、でもさ、全部はやりすぎじゃない? 学校とバイトがあるからって、全く時間がないわけでもないし」

「でも、私は暇です。この家から出られないんですから」


 ……そうだ。彼女の言う通り、結局、自由は制限されてしまっている。


「それに、その、家事は嫌いじゃありませんし」

「……本当か?」


 家事なんて、ひたすら面倒なだけだろう。現に三澄は相当サボっていた。自分だけが我慢すればいいと思うと、どこまでも手を抜けるのである。部屋の四隅とか、きっとかなりの量の埃が溜まっている。


「はい、本当です。……スーパーでは誤魔化しましたけど、本当は料理も好きです」

「うーん……」


 そこまで言われると、非常に断りづらい。

 それに、こちらとしても非常に助かるのは事実だ。やってくれるというなら、むしろ平伏してでもお願いしたいところ。彼女が無理をしていない限りにおいては、だけど。


「まあ、分かったよ。家事は頼んだ」

「はい」


 明確な代替案もないため三澄が折れると、若菜がどこか安堵するように頷いた。

 家事が出来ることが、それほど嬉しかったのだろうか。全くもって、彼女の心理は読み解けない。


 その後も、話し合いは続いた。が、その内容は、とても建設的と言えるようなものではなかった。

 家事の担当が決まった以上、あとは気遣いの一言で大体片付いてしまうことに気付いたからだ。

 今日一日過ごして、互いに最低限の信頼を獲得するに至った。よっぽどのことが無い限り、相手の不利益となるようなことを、進んですることはないだろうと。

 お互い寛容な性格(若菜においてはその限りではないかも?)であるということも、大きく寄与していたに違いない。


 だが、これは裏を返せば、相手に対してということの表れでもある。

 自分が我慢すれば、丸く収まる。向こうに要求することなんて、何もない。そういう思考がきっとお互いにあるのだ。

 当たり前のことだ。よほど図々しい者でない限り、ほぼ初対面の相手に我儘言おうなんて思わないだろう。


 この溝が、いつか埋まる日が来るのか。それとも、埋まらないまま定着し、普通になってしまうのか。

 三澄としては、出来るだけ前者を希望したいところではあったので。

 結局、気になったことがあれば随時話し合いを行い、ルールを追加していくという、先延ばし策を提案。若菜の賛同を得て、今回の話し合いは終了となった。

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